三國志卷六十五 吳書二十 賀邵

賀邵、字は興伯、会稽郡山陰の人。呉の名将賀斉の孫、賀景の子。孫休の代に散騎中常侍・呉郡太守を歴任し、孫皓の代には中書令・太子太傅を領した。孫皓の暴政・佞臣重用・重税を諫める長大な上疏を奉ったが容れられず、後に中風で言葉を失うと仮病を疑われ、拷問の末に一言も発せぬまま殺害された。享年四十九。子の賀循は東晋の名臣となった。

年表(1件)
  • 天冊元年275年獄中で千回の拷問を受け一言も発さぬまま殺害され、家族は臨海に流される

出自

  • 賀邵、字は興伯、会稽郡山陰の人。『呉書』はいう。賀邵は賀斉の孫、賀景の子である。
  • 孫休が即位すると、中郎から散騎中常侍となり、出て呉郡太守となった。孫皓の時代、入って左典軍となり、中書令に遷り、太子太傅を領した。孫皓は凶暴で驕慢になり、政事は日に日に廃れていった。賀邵は上疏して諫めた。

賀邵の上疏(要約)

  • 古の聖王が奥深い宮殿に居ながら万里の情勢を知り、拱手して座したままで天下を明察できたのは、賢者に任せた功であると説き、陛下は至徳の資質をもって皇業を継承されたのだから、自ら道を実践し神器を恭しく奉じ、賢者を旌表し善を表彰して庶政を安んじるべきであると述べる。
  • 近年、朝廷の序列は乱れ、真偽が入り交じり、上下の官が空位になり、文武の職も欠けたままである。外には山岳のような重鎮がなく、内には過ちを拾い上げる忠臣もいない。佞臣が羽ばたき朝廷の威権を弄び、栄利を盗む一方で、忠良は排斥され、信頼できる臣は害されている。正しい士は方正を挫かれ、凡庸な臣が阿諛追従し、各々時流に迎合している。人々は道理に反した評価を口にし、士人は詭弁を弄び、清流は濁り、忠臣は口を閉ざしてしまった。陛下は九天の上、幾重もの奥深い室におられ、言葉を発すれば風のようになびき、命令を下せば影のように従うため、親しく寵愛する臣ばかりを目にし、日々従順な言葉ばかりを聞いておられ、彼らを真に賢者だと思い、天下は既に治まっていると考えておられるのではないか。私の心はこれを不安に思い、あえて申し上げる次第である。
  • 興国の君主はその過ちを聞くことを喜び、荒乱の主はその誉れを聞くことを喜ぶという。過ちを聞く者は過ちが日々消えて福が至り、誉れを聞く者は誉れが日々損なわれて禍が至る。それゆえ古の君主は謙譲によって賢者を進め、己を虚しくして過ちを求めた。しかし陛下は厳刑をもって直言を禁じ、善士を退けて諫臣に逆らい、毀誉の実を見誤り、側近の言葉に溺れておられる。かつて殷の高宗は補佐を求めて夢に賢者を得たが、陛下は求めることを忘れ、これを忽せにされているようだ。常侍王蕃は忠実に公に奉じ、輔弼の才があったが、酔いに乗じて大戮を加えられた。近く鴻臚葛奚は先帝の旧臣であったが、偶々意に逆らったのは酔いに任せた言葉に過ぎないのに、陛下は激怒してこれを軽慢とし、強い酒を飲ませて中毒死させた。これ以来、国中は心を痛め、朝臣は身の処し方を見失い、仕官する者は退くことを幸いとし、在任する者は外任に出ることを福とする有様であり、まことに聖業を保ち道化を隆盛させる所以ではない。
  • また何定はもとより走使いの小人であり、僕隷の身分で、些細な善行もなく鷹や犬のような使い走りの用しかないのに、陛下はその佞媚を愛し威権を貸し与えられ、何定は寵愛を頼んで放縦になり、国政を意のままに操り、天の機に手を出し、上は日月の明を損ない、下は君子の道を塞いでいる。小人が人を求めるときは必ず不正な利益を進めるものであり、何定はみだりに事業を起こし、江辺の守備兵を発して麋鹿を追い立て、山陵に網を張り、林を刈り払って野の獣を尽く追い込み、狩り場に集めているが、上は時の助けにならず、下には損耗の費用ばかりがかかっている。兵士は運搬に疲れ、人力は駆り立てに尽き、老弱は飢え凍え、大小の者が怨み嘆いている。
  • 私が天変を観察するに、近年、陰陽が乱れ四季の節が逆行し、日食や地震が起き、真夏に霜が降りている。典籍に照らせば、これらは皆陰の気が陽を凌ぎ、小人が権勢を弄ぶ結果として起こるものである。私はかつて書伝を閲覧し、これを行事に照らし合わせて、災祥の応報に寒気を覚えた。かつて殷の高宗は己を修めて鼎の上に雉が現れる異変を消し去り、宋の景公は徳を崇めて熒惑(火星)の異変を退けた。願わくば陛下は上は天の譴責を畏れ、下は二君の災いを払った道を追い、遠くは前代の任賢の功を鑑み、近くは今日の誤った任用の過ちを悟り、朝廷の位を清め、俊英を旌表登用し、佞邪を退け、奸勢を抑えていただきたい。そのような輩を一切用いず、広く隠れた人材を招き、直言を受け入れ、天の指図を敬い承け、先業を敬い奉じれば、大いなる教化が広まり、天と人の望みも満たされるだろう。
  • 『伝』にいう「国が興る時は民を赤子のように見、国が滅びる時は民を草芥のように見る」と。陛下はかつて才知を隠し東方(会稽)に潜んでおられたが、聖哲の資質をもって帝位に登られると、四海は首を伸ばして期待し、八方は目をこすって見守り、成王・康王のような治世が間もなく訪れると信じていた。しかし即位以来、法禁はますます苛烈になり、賦税・徴発はいよいよ繁多になった。宮中の宦官が州郡に派遣され、みだりに事業を興し、争って不正な利益を作っている。百姓は機織りの困窮に苦しみ、民は際限のない徴発に疲弊し、老幼は飢え凍え、家々には青ざめた顔が並んでいるのに、各地の長官は罪に問われることを恐れ、厳法峻刑によって民を苦しめ督促している。それゆえ人力は堪えられず、家々は離散し、嘆きの声が和気を傷つけている。
  • また江辺の守備兵は、遠くは国土を拡げるため、近くは境界を守り難に備えるためのものであり、特に優遇し養うべきであるのに、徴発・賦課が雲霞のように押し寄せ、衣は粗末な服さえ完全でなく、食は朝夕にも足りない。外では刃の危険に遭い、内では望みのない憂いを抱いている。それゆえ父子が互いを見捨て、逃亡者が続出している。願わくば陛下は賦税を寛くし煩雑を除き、窮乏者を救済し、急務でない事を省き、禁令を緩め法を簡素にすれば、国中は仕事を楽しみ、大いなる教化が広く行き渡るだろう。民は国の根本であり、食は民の命である。今、国には一年分の蓄えもなく、家には一月分の蓄えもないのに、後宮の中で座して食を得る者は一万人余りに及ぶ。内には夫婦が離れ離れになる怨みがあり、外には損耗の費用がある。倉庫は無用のことのために空になり、士民は糟糠にも飢えている。
  • また北の敵(魏晋)は目を凝らし、我が国の盛衰をうかがっている。陛下は自らの威徳を頼みとせず、ただ敵が来ないことを頼みとし、四海の困窮を顧みず、敵を軽んじて難ではないとしているが、まことに長期の戦略や廟算に基づく勝利の要諦ではない。かつて大皇帝(孫権)は身を苦しめて南方に基業を創始され、江山を割拠し、万里の領土を切り拓かれた。これは天の助けを承けたとはいえ、実に人の力によるものであった。その余慶は陛下に及んでいるのだから、陛下は徳器を崇めることに努め、前代の功績を輝かせるべきである。どうして始祖の功勲を忽せにし、得難い大業を軽んじ、天下の振るわぬことを忘れ、興亡の重大な変化を無視してよいだろうか。
  • 私が聞くところでは、否と泰(衰運と盛運)は常なく、吉凶は人によるものであり、長江の険は永く頼みとすることはできない、もし我らが守らなければ、一本の葦でも渡れてしまう。かつて秦は皇帝の号を建て、崤・函の険に拠りながら、徳化を修めず法政は苛酷で、その害毒は民に及び、忠臣は口を閉ざした、それゆえ一人の男(陳勝)が大呼するだけで社稷は傾き覆った。近くは劉氏(蜀漢)が三関の険に拠り、幾重の山の堅固さを守り、金城石室・万世の基業と称すべきものであったのに、任用を誤り賢者を失い、一朝にして滅び、君臣は首に縄をかけられて捕虜となった。これは当世の明らかな鑑であり、目前の戒めである。願わくば陛下は遠くは前代の事を考え、近くは世の変化を見て、基を厚くし本を強め、私情を割いて道に従われれば、成王・康王のごとき治世が興り、聖祖の福運もいよいよ隆盛となるであろう。

処刑と子の賀循

  • この上疏が奉られると、孫皓はこれを深く恨んだ。賀邵は公事に忠実で厳正であり、側近の者に憚られていた。彼らは共謀して、賀邵が楼玄と共に国事を誹謗していると讒言し、二人は共に詰問された。楼玄は南方の州に送られ、賀邵は元の職に戻された。
  • 後に賀邵は中風にかかり、口がきけなくなり、数ヶ月職を離れた。孫皓はこれを仮病だと疑い、酒蔵(獄)に捕らえて千回に及ぶ拷問を加えたが、賀邵はついに一言も発することなく殺害され、家族は臨海に流された。あわせて詔を下して楼玄の子孫も誅殺した。この年は天冊元年(275年)で、賀邵は四十九歳であった。
  • 賀邵の子賀循、字は彦先。虞預『晋書』はいう(賀循は父の禍に遭い、海辺に流されたが、呉が平定されると郷里に戻った。節操が高く、幼くして常人と異なり、言動は必ず礼譲に基づいた。学を好み博識で、特に三礼に通じた。秀才に挙げられ、陽羨・武康の令に任じられた。顧栄・陸機・陸雲は賀循を推薦する上表をした〔賀循の徳量・才鑑を称え、長らく地方に埋もれていたことを惜しみ、その登用を求めた〕。しばらくして召されて太子舎人となった。石冰が揚州を破った際、賀循もまた民を集めて戦ったが、事が平定されると門を閉ざして出仕しなかった。陳敏が乱を起こした際、賀循を丹楊内史としたが、賀循は病と称して固辞し、陳敏もあえて強要しなかった。当時、江東の豪族は皆陳敏から爵位を受けたが、賀循だけは同郡の朱誕と共にこれを受けなかった。後に呉国内史に任じられたが就かなかった。元皇帝(司馬睿)が鎮東将軍であった時、賀循を軍司馬に招き、帝が晋王になると賀循を中書令としたが固辞して受けず、太常に転じ太子太傅を領した。当時、朝廷は創建されたばかりで様々な議論があったが、宗廟の制度は皆賀循が定めたもので、朝野は彼に諮問し、当代の儒宗と目された。六十歳、太興二年(319年)に没した。司空を追贈され、諡は穆といった。賀循の著した論はすべて世に伝わった。子の賀隰は臨海太守となった)。