三國志卷六十一 吳書十六 陸凱

陸凱は字を敬風といい、呉郡呉の人、丞相陸遜の一族。地方官として治績を挙げつつ『太玄』を好み占筮に長け、孫休・孫皓の代を通じ征北将軍・鎮西大将軍・左丞相を歴任した忠義剛直の重臣。孫皓の暴政をたびたび諫め、武昌遷都の弊害を説く長大な上疏や「不遵先帝二十事」を奉ったことで知られる。建衡元年(269年)、賢臣の登用を遺言して没した。享年72。

年表(3件)

陸凱

  • 字敬風、呉郡呉の人、丞相陸遜の一族。永興・諸暨長を歴任し治績を挙げ、建武都尉として兵を統べつつも学問を怠らず、『太玄』を好み占筮に長けた。儋耳太守として朱崖を討伐し建武校尉。五鳳二年(255年)、零陵の陳毖の乱を討ち巴丘督・偏将軍・都郷侯、武昌右部督に転じ寿春救援に従軍。
  • 孫休の代、征北将軍・仮節・豫州牧。孫皓の代、鎮西大将軍・都督巴丘・荊州牧・嘉興侯。晋との和平交渉の後、使者丁忠の弋陽襲撃案を諫めて止めた(詳細は『皓伝』)。宝鼎元年(266年)、左丞相。
  • 孫皓が臣下と目を合わせるのを嫌う性格であることを諫めて改めさせた逸話。
  • 孫皓が武昌に遷都した際の民の困窮を憂い、長大な上疏を奉った。暴政による民の疲弊・財政窮乏、秦の滅亡と漢の興隆の教訓、蜀漢滅亡の轍を踏まぬよう戒め、武昌の地理的不利(「寧飲建業水、不食武昌魚」の童謡を引用)、三年の蓄えなき国庫の危機、後宮女官の削減、身分に拘らぬ人材登用を説いた。
  • 佞臣何定を面責し、孫皓の不興を買うも意に介さなかった。
  • 建衡元年(269年)、病没に際し孫皓の使者董朝に、何定の重用停止、奚熙の浦裏田開発中止、姚信・楼玄・賀劭・張悌・郭逴・薛瑩・滕脩・族弟の陸喜・陸抗ら賢臣の登用を遺言。享年72。
  • 死後、孫皓の怒りを買い一族は建安に流された。陸凱・大司馬丁奉・御史大夫丁固が孫皓廃立を謀ったとの説(左将軍留平を誘ったが拒否された経緯)も伝わる。
  • 裴松之は、荊州・揚州から伝わる「陸凱が孫皓を諫めた二十事」の真偽について、呉人の多くが聞いたことがないとしつつも、内容が孫皓への戒めとして有益であるため付記するとする。

陸凱の上疏「不遵先帝二十事」(要旨)

  • 孫皓が「宮殿の移築は不利を避けるためだ」と答えたのに対し、陸凱はさらに上疏し、先帝孫権の政に反する事項を二十にわたって列挙した。宮殿移築の強行、忠臣王蕃を殿堂で梟首した非道、寵臣万彧の過度の抜擢、民への配慮の欠如、後宮の膨張、遊興による政務怠慢、贅沢な服飾、無能な近臣(陳声・曹輔)の重用、過度の飲酒強要、宦官(高通・詹廉・羊度)への戦兵付与、後宮女官の徴発、乳母の酷使、農桑の荒廃、身分に拘らぬ人材登用の廃止、兵士への過重な使役、賞罰の不公正、監官による煩雑な統治(交阯反乱の前例を引く)、校事制度の復活、頻繁な人事異動、冤獄の放置を、先帝の善政との対比で一つ一つ諫めた。

陸凱の子・陸禕

  • 陸凱の死後、太子中庶子。右国史華覈が夏口守備の適任者として陸禕を推薦した上表(魯粛に比する才幹、清廉さ)を引く。

弟・陸胤

  • 字敬宗、陸凱の弟。御史・尚書選曹郎を経て太子孫和に厚遇される。二宮の争いに際し、太子を守るため陸遜の諫言を仲介した経緯から楊竺との密議が発覚し投獄され拷問を受けるが口を割らなかった。
  • 衡陽督軍都尉を経て、赤烏十一年(248年)、交阯九真の反乱に際し交州刺史・安南校尉。高涼の黄呉ら三千余家、蒼梧建陵の賊を降し、前後八千の兵を得る。安南将軍。
  • 永安元年(258年)、西陵督・都亭侯、のち左虎林。中書丞華覈が陸胤の治績(風害・瘴気の鎮静、水利、清廉さ、民心収攬)を賞し朝廷への抜擢を推薦した上表を引く。
  • 子の陸式が柴桑督・揚武将軍として跡を継いだ。

史論

評に曰く、潘濬は公明で決断力に富み、陸凱は忠義で剛直、いずれも大丈夫の気概を備えていた。陸胤は身を清くして事を成し、南方でその名を称えられ、良牧と呼ぶべき人物である。