三國志卷六十 吳書十五 賀齊・全琮・呂岱・周魴・鍾離牧

賀齊

  • 字公苗、会稽山陰の人。虞预『晋書』によれば本姓は慶氏で、伯父賀純が後漢安帝の父の諱を避けて賀氏に改めたという。父は永寧長賀輔。
  • 郡吏から剡県の代理県長となり、侠客斯従の反乱を武力で速やかに鎮圧し(従の一族千余人が挙兵するもこれも撃破)威名をあげた。太末・豊浦の反乱も治め太末長に転じた。
  • 建安元年(196年)、孫策の推挙で孝廉となる。侯官長商升の反乱を、永寧長韓晏の失敗後に賀斉が代わって鎮圧。張雅・詹強の反乱も内部対立(張雅の女婿何雄との不和)を利用して平定。
  • 建安八年(203年)、建安・漢興・南平の反乱を平定。属県から五千の兵を集め、洪明・洪進・苑御・呉免・華当ら賊帥(各万戸規模)、鄒臨(六千戸)を撃破し斬首六千級、平東校尉となる。
  • 建安十年(205年)、上饒を討ち建平県を新設。
  • 建安十三年(208年)、丹陽の黟・歙を討伐。険阻な林歴山に籠る賊帥陳僕・祖山ら二万戸を、決死隊を密かに登らせ夜襲で混乱させて撃破し斬首七千。歙賊帥金奇・毛甘も帰服。新たに新定・黎陽・休陽の県を分置し、新都郡を設置、賀斉が太守となる。
  • 建安十六年(211年)、余杭の郎稚の反乱を討ち臨水県を分置。凱旋時、孫権が盛大に見送り、殊俗貢珍の徳を賀斉に譲った逸話がある。
  • 建安十八年(213年)、豫章東部の彭材・李玉・王海らの反乱(万余人)を平定、奮武将軍に昇進。
  • 建安二十年(215年)、合肥親征に従軍し、徐盛が失った矛を奪還。孫権が張遼に襲われ危機に陥った際、賀斉が涙ながらに軽率を戒めた逸話。
  • 建安二十一年(216年)、鄱陽の尤突の反乱を陸遜とともに平定、安東将軍・山陰侯。
  • 黄武初年(222年)、曹休の来攻に対し新市に布陣。洞口の風水害で味方が溺死する中、賀斉の軍のみ無事で他将の頼りとなった。装備に贅を尽くした軍容で曹休を威圧し撤退させ、後将軍・仮節・徐州牧を兼ねる。
  • 蘄春太守晋宗の反乱を麋芳・鮮于丹らと討ち生け捕り。没後四年、子の賀達・弟の賀景も名将として知られた。

全琮

  • 字子璜、呉郡銭唐の人。父全柔は孫策・孫権に仕えた。全琮は父の命で米数千斛を売買に出したが、困窮する士大夫に施し空船で戻り、父を怒らせつつも「先急を思っての施し」と述べ、後にその奇矯さを認められた(徐衆・裴松之の評あり)。
  • 中原からの避難士人百余家を私財で援助し名声を得る。奮威校尉として山越討伐で一万余の精兵を得る。
  • 建安二十四年(219年)、劉備配下関羽討伐の策を上奏し、後の呂蒙の奇襲成功の功として認められ陽華亭侯。
  • 黄武元年(222年)、洞口の魏軍を呂範とともに防ぎ将軍尹盧を斬り、綏南将軍・銭唐侯。黄武四年(225年)、九江太守。黄武七年(228年)、石亭で陸遜とともに曹休を破る。丹楊・呉・会稽の山越反乱を東安郡太守として鎮撫(数年で一万余を得る)。
  • 黄龍元年(229年)、衛将軍・左護軍・徐州牧。太子孫登の単独出征を諫めて中止させた功で大臣の節と評される。公主を娶る。
  • 嘉禾二年(233年)、六安征討で逃散した民を追撃せず、全軍を保つ判断を下した。
  • 赤烏九年(246年)、右大司馬・左軍師。珠崖・夷州遠征を諫めたが容れられず、遠征は疫病で兵の八九割を失う大損害となり孫権が後悔した。
  • 十二年(249年)没、子の全懌が跡を継ぐが、後に諸葛誕救援時に降魏。一族の全禕・全儀・全静らも魏に降り郡守・列侯となった。

呂岱

  • 字定公、広陵海陵の人。乱を避け江東に渡り、孫権のもとで頭角を現す。会稽東冶の呂合・秦狼の乱を蒋欽らと平定し昭信中郎将。
  • 建安二十年(215年)、長沙三郡平定に従軍。安成の呉碭・袁竜の反乱を魯粛らと鎮圧、廬陵太守。
  • 延康元年(220年)、代わって交州刺史。高涼の銭博を降し鬱林の夷賊を破る。桂陽・湞陽の王金の反乱を平定(斬獲万余)、安南将軍・都郷侯。
  • 交阯太守士燮の死後、その子士徽が命に従わず反乱すると、周囲の危惧を退けて奇襲を進言し、電撃的な進軍で士徽兄弟六人を降し斬首、番禺侯。交州を再編し九真討伐、扶南・林邑・堂明への使者派遣で朝貢を得る。鎮南将軍。
  • 黄龍三年(231年)、武陵蛮夷を潘濬とともに平定。嘉禾年間、廬陵の李桓・路合、会稽東冶の随春、南海の羅厲らの反乱を討伐(随春は降伏させ列将に登用、桓・厲らは斬獲)。
  • 潘濬没後その職を継ぎ荊州の文書を管掌、廖式の乱を一年かけて平定。年八十でなお精勤、奮威将軍張承からの称賛の書簡あり。
  • 陸遜死後、武昌を諸葛恪と分担し上大将軍。子の呂凱は副軍校尉。孫亮即位で大司馬。交州在任中家族が困窮していたことを孫権が後で知り恥じ、俸給を加増した逸話。
  • 呉郡の徐原という人物の才を見出し登用し、その直言を厭わず「わが益友」と称え、死を悼んだ逸話。
  • 太平元年(256年)、96歳で没、子の呂凱が跡を継ぐ。質素な葬儀を遺言。

周魴

  • 字子魚、呉郡陽羨の人。寧国長・懐安を経て銭唐の反乱(彭式ら)を平定。丹楊西部都尉、鄱陽太守として彭綺の反乱を胡綜と協力して平定し、昭義校尉。
  • 曹休を誘き寄せるため、山中の旧族名帥に代わり自ら密かに七通の偽りの降伏書簡(箋)を送った。内容は、山越の民の擾乱を装った偽装反乱を口実に、曹休の来援を要請するもので、呉軍の配置(呂範・孫韶が淮方面、全琮・朱桓が合肥方面、諸葛瑾・歩騭・朱然が襄陽方面、陸議・潘璋が梅敷討伐、本隊が石陽を襲い諸葛亮が関西を衝く)を伝え、江辺の守備が手薄であることを強調し、前任太守王靖の粛清を例に自らの危機を訴え、密使董岑・邵南への配慮を求め、将軍・侯印など多数の官印を要求、事の秘匿を求めるものだった。
  • 別に朝廷への上表で計画の全容と決意を述べ、詐術ではあるが唐堯の故事に倣うものだと弁明した。
  • 曹休はこれを信じ十万の兵で皖に侵入したが、周魴は陸遜とともにこれを迎撃し大破、万を数える戦果を挙げた。孫権は「君の断髪の義が大事を成した」と賞し、裨将軍・関内侯に叙した(徐衆はこの断髪の行為を君子の美とはしないと評す)。
  • 賊帥董嗣が豫章・臨川を荒らした乱を、吾粲・唐咨が数ヶ月攻めても落とせなかったところ、周魴が間諜を用いた計略で嗣を誅殺させ、その弟を降した。
  • 郡在任十三年で没し、賞罰を明らかにし威恩を並び行った。子の周処は文武の才があり、天紀年間に東観令・無難督となる。周処は西晋で御史中丞となり斉万年の乱討伐で戦死、その子の周玘・周札も名を残した。

鍾離牧

  • 字子幹、会稽山陰の人、後漢の魯相鍾離意の七世孫。父は楼船都尉鍾離緒、兄は上計吏鍾離駰。若くして永興で荒れ地を開墾した稲二十余畝を県民に横取りされても争わず、罰されそうになった民をかばい稲を譲った逸話がある(承宮の故事に自らを比す言葉、及び徐衆の評あり)。
  • 赤烏五年(242年)、太子輔義都尉から南海太守に転じ、高涼の仍弩ら、掲陽の曾夏らの反乱を招撫策で平定。始興太守羊衜が鍾離牧の智勇と清廉さを賞賛する書簡を滕胤に送った。
  • 丞相長史・司直・中書令を経て、建安・鄱陽・新都の山越反乱を監軍使者として鎮圧、賊帥黄乱・常俱籌らを兵役に編入。秦亭侯・越騎校尉。
  • 永安六年(263年)、蜀滅亡に乗じ魏の漢葭県長郭純が武陵に侵入した際、平魏将軍・武陵太守として、朝吏の慎重論を退け迅速な進軍を主張、二千里近くを昼夜駆けて悪民の首魁百余人と支党数千を斬り、五谿を平定した。撫夷将軍高尚の懸念にも「非常の事に旧例は通じない」と応じた。
  • 公安督・揚武将軍・都郷侯を経て濡須督。侍中東観令朱育との問答で、白起の故事を引き自らの功に驕らぬ姿勢を語った。
  • 前将軍・武陵太守として在任中に没す。家に余財なく士民に慕われた。子の鍾離褘が跡を継ぐ。弟の鍾離徇は将として西陵に戍り、晋の脩信陵城の動きを予見したが容れられず、後に晋の呉平定戦で戦死した。

史論

評に曰く、山越は叛乱を好み平定困難で、孫権は外征に専念できず魏に低姿勢を取らざるを得なかった。ここに挙げた諸臣はいずれも内乱を鎮め辺境を安定させた功臣である。呂岱は公正廉潔、周魴は謀略に富み、鍾離牧は長者の風格を持ち、全琮は当代随一の才幹を持ちながら子弟の不行跡を取り締まれず、名声を損なった。