三國志卷五十七 吳書十二 駱統

出自と孝行

  • 駱統は字を公緒といい、会稽郡烏傷県の人である。父の駱俊は陳相まで至ったが、袁術に殺害された(謝承『後漢書』によれば、俊は字を孝遠といい文武の才幹に優れ、袁術が僭号し天下が乱れる中でも境を固く守り賊の侵犯を許さなかった。のち術の軍が食糧に窮し俊に糧を求めたが、俊はこれを拒み、術は密かに人をやって俊を殺した)。統の母は再婚して華歆の側室となり、統は当時八歳であったが親族と共に会稽へ帰った。母が見送りに来た際、統は母の悲しみを増やさぬよう顔を向けずに車に乗り、母は後ろで涙を流した。統は継母によく仕えた。折しも飢饉に見舞われ、郷里や遠方の客人の多くが困窮していたため、統は自らの食を減らしてこれを援けた。姉が仁愛深くその様子を哀れんで理由を尋ねると、統は「士大夫でさえ糟糠にも事欠くというのに、自分だけ満腹でいられようか」と答えた。姉は自らの私財を統に与え、母にもこれを告げると母もまた統の志を賢しとし、広く施しをさせた。これにより統の名は知られるようになった。

烏程相としての治績

  • 孫権が将軍として会稽太守を兼ねていた頃、統は二十歳で烏程相を試み、戸数一万を超える民が皆その恵政を称えた。権はこれを嘉して功曹に召し騎都尉を代行させ、従兄孫輔の娘を娶わせた。統は民情の把握に努め、権に賢者を尊び士を接すること、恩賞の際には一人一人に親しく声をかけ心情を尋ねること等を勧め、人々に感謝と忠誠の念を抱かせるよう説き、権はこれを採用した。のち建忠中郎将に出て武射吏三千人を領し、淩統の死後はその兵も併せて領した。

上疏(徴役の弊)

  • 当時、徴役が頻繁で疫病も重なり民戸が減少していたため、統は上疏してその弊害を訴えた(上疏の大意:国は民を根本とし、今強敵が滅びず徴賦が積年に及ぶうえ疫病による死者も多く、民は遠役を恐れて財を賄賂に費やし逃げ延び、あるいは険阻な地に逃れ盗賊化する。貧民は子を養育できず屯田の兵も子を棄てるほどで、天が生んだ子を親が殺す事態は陰陽の調和を乱すものである。今後長く国を保つためには民を育て国力を蓄える必要があり、殿下には荒廃した地域の復興と民の休息に留意されるよう願う内容であった)。権はこれに深く心を動かされ留意した。

濡須督としての最期

  • 統は陸遜に従い蜀軍を宜都で破り偏将軍に遷った。黄武初(222年)、曹仁が濡須を攻めた際、統は厳圭と共に中洲を襲おうとした常雕らを撃退し、新陽亭侯に封じられ、のち濡須督となった。しばしば時弊についての便宜策を上疏し、その数は数十にのぼり、いずれも的を射たものであった(文が多いため詳しくは記さない)。とりわけ民間の占募(私的な徴募)が長らく風俗を悪化させ離叛の心を招く元凶であるとして早急な廃止を主張し、権と幾度も議論を重ねた末、ついにその策が実行された。享年三十六、黄武七年(228年)に没した。