三國志卷四十六 呉書一 孫堅
孫堅(字は文臺、?–192年、享年37)、呉郡富春の人。孫武の子孫と伝わる。黄巾討伐・辺章韓遂討伐で武功を挙げ、長沙太守として反乱を平定、董卓討伐の義兵にも加わり洛陽入城を果たした。荊州の劉表配下の黄祖との戦いで戦死し、江東における孫氏勢力の基礎を築いた。子の孫権の即位後、武烈皇帝と追諡された。
出自
- 孫堅は字を文臺といい、呉郡富春の人。孫武の子孫とされる。
- 若くして県吏となった。十七歳のとき父と共に船で銭唐へ行く途中、海賊の胡玉らが匏里で商人の財物を略奪しているのに出くわし、旅人も船も進めずにいた。孫堅は「賊を討つべきだ」と父に告げたが止められ、単身刀を手に岸に上がり東西を指図して兵を配置しているように見せかけると、賊は官兵の捕縛と誤解して財物を捨てて逃げた。孫堅はこれを追って一人を斬り、父を大いに驚かせた。この評判により郡府に召され仮尉に任じられた。
- 会稽の妖賊許昌が句章で挙兵し陽明皇帝を自称、子の許韶と共に諸県を煽動して数万の衆を集めた。孫堅は郡司馬として精鋭千余人を募り、州郡と合力してこれを破った。この年、熹平元年(172年)である。刺史臧旻の上奏により孫堅は塩瀆丞に任じられ、以後盱眙丞・下邳丞を歴任した。
黄巾討伐
- 中平元年(184年)、黄巾の張角が魏郡で挙兵した。朝廷は車騎将軍皇甫嵩・中郎将朱儁を派遣し、朱儁は孫堅を佐軍司馬に招請、下邳の若者たちも従い、孫堅は商旅や淮泗の精兵も募り合わせて千余人を得て奮戦した。
- 汝穎の賊は宛城に籠城したが、孫堅は自ら先頭に立って城壁を登り、これを大破した。朱儁の上奏により別部司馬を拝命した。
辺章・韓遂討伐と董卓弾劾
- 涼州で辺章・韓遂が反乱を起こし、中郎将董卓は討伐に失敗した。中平三年(186年)、司空張温が車騎将軍代理として西征し、孫堅を参軍事として長安に駐屯させた。張温が詔で董卓を召したところ董卓は長らく応じず、来ても応対が不遜であった。孫堅は張温に耳打ちし、董卓が召命に遅れ軍法に反したこと、進軍を渋ったこと、傲慢な態度をとったことの三罪を挙げ、軍法により斬るべきと進言したが、張温は董卓の隴蜀での威名を恐れて実行しなかった。
- 辺章・韓遂の軍は撤退し降伏を願い出た。議者は戦わずして功賞を決められないとしたが、孫堅が董卓の三罪を挙げて斬るよう勧めたことは称賛された。孫堅は議郎を拝命した。
長沙太守として反乱鎮圧
- 長沙の賊区星が将軍を自称し反乱を起こすと、孫堅は長沙太守に任じられ一月余りでこれを平定した。零陵・桂陽の周朝・郭石らの呼応した反乱も併せて鎮定し、三郡が静まった。朝廷は前後の功績により孫堅を烏程侯に封じた。
董卓討伐の挙兵
- 霊帝が崩じ董卓が朝政を専断すると、諸州郡が義兵を挙げて董卓討伐を図った。孫堅も挙兵したが、以前から自分を無礼に扱っていた荊州刺史王叡を道すがら殺害した。
- 南陽に至ると衆数万に達したが、太守張咨は動じなかった。孫堅は牛酒で張咨を礼遇しつつ、軍糧の不供給と義兵への妨害を理由に軍法で処断し斬った。郡中は震撼し以後求めるものは何でも得られた。
- 魯陽で袁術と会し、袁術は孫堅を行破虜将軍・領豫州刺史とした。董卓の軍が迎撃に来たが孫堅は落ち着いて対処し、整然とした軍容に董卓軍は攻めずに退いた。
- 董卓軍との陽人での戦いで華雄らを討ち取り大破したが、袁術は孫堅が洛陽を得れば制御できなくなることを恐れ軍糧の供給を渋った。孫堅は自ら魯陽へ夜駆けし袁術を詰問して疑いを解かせた。董卓は孫堅の勇猛を恐れて李傕らを遣り和親を求めたが、孫堅は董卓の逆賊ぶりを理由に拒絶し進軍を続けた。董卓はついに都を長安へ移し、洛陽を焼き払った。
洛陽入城と伝国璽
- 孫堅は洛陽に入り、諸陵を修復し董卓が発掘した陵墓を塞いだ。洛陽の甄官井から五色の気が上るのを見て人をやり探らせたところ、漢の伝国璽を得たと伝えられる。
- 引き続き魯陽に軍を戻したが、関東の諸州郡が互いに勢力争いを始め、袁紹が周㬂を豫州刺史として派遣し孫堅の州を奪おうとしたことに孫堅は義兵の趣旨が損なわれたことを嘆いた。
劉表との戦いと戦死
- 初平三年(192年)、袁術の命で孫堅は荊州の劉表を攻めた。劉表は黄祖を派遣して樊鄧の間で迎撃させたが孫堅はこれを破り、漢水を渡って襄陽を包囲し、単騎で峴山を進んでいた際、黄祖軍の兵に射殺された。享年三十七(一説に初平四年正月七日没)。甥の孫賁が兵を率いて袁術の下に赴き、袁術は改めて孫賁を豫州刺史とした。
- 孫堅には策・権・翊・匡の四子があった(一説に朗を含め五子、朗は庶子)。孫権は帝位に就くと孫堅を武烈皇帝と諡した。