三國志卷四十五 蜀書十五 宗預

呉への使者

  • 宗預は字を徳艷といい、南陽郡安衆の人。建安年間、張飛に従って蜀に入った。建興初め、丞相諸葛亮の主簿となり、のち参軍・右中郎将に遷った。
  • 諸葛亮の死後、呉が魏の乗じることを恐れて巴丘の守備兵を一万人増やした際、蜀もこれに応じて永安の守りを増した。宗預が呉への使者となると、孫権は西の守りを増やした理由を問い、宗預は「東が巴丘を増やし、西が白帝を増やしたのは、それぞれの情勢によるもので、互いに疑う必要はない」と答えた。孫権は大笑いしてその率直さを称え、鄧芝・費禕に次いで厚く待遇した。侍中に遷り、のち尚書に転じた。

晩年と孫権との別れ

  • 延熙十年(247年)、屯騎校尉となった。車騎将軍鄧芝が「六十歳を過ぎれば兵役を免れる礼があるのに、あなたは今兵権を受けたのはなぜか」と問うと、宗預は「あなたは七十を過ぎても兵権を返さないのに、私が六十で受けられないわけがあろうか」と応じた。
  • 鄧芝は驕慢で大将軍費禕らも一目置いていたが、宗預だけは屈しなかった。再び呉へ使いすると、孫権は宗預の手を取り涙を流して別れを惜しみ、大きな真珠一斛を贈った。
  • のち後将軍に遷り永安を統括、征西大将軍を拝命、関内侯を賜った。景耀元年(258年)、病により成都に召還され、鎮軍大将軍・兗州刺史を領した。都護諸葛瞻が政務を統括し始めた頃、廖化が宗預を誘って共に諸葛瞻を訪ねようとしたが、宗預は「我らは七十を超えており、あとは死を待つのみ。なぜ若輩の元へせわしなく出向く必要があろうか」と断った。

廖化(宗預の附伝)

  • 廖化は字を元儉といい、本名は淳、襄陽の人。前将軍関羽の主簿を務めたが、関羽の敗死後は呉に属した。劉備の元へ帰ろうと偽死を装い、老母を連れて夜昼構わず西へ向かった。劉備の東征に際し秭帰で合流し、劉備はこれを喜んで宜都太守とした。
  • 劉備の死後、丞相参軍、督広武を経て右車騎将軍に至り、仮節・并州刺史を領し、中郷侯に封じられ、果断勇烈で知られた。官位は張翼と並び、宗預の上位にあった。
  • 咸熙元年(264年)春、廖化・宗預は共に洛陽へ移されることとなったが、道中で病死した。