三國志卷四十二 蜀書十二 來敏

直言と貶謫

  • 來敏、字は敬達、義陽新野の人、来歙の後裔。父の艶は漢の司空。漢末の大乱で敏は姉夫について荊州へ逃れ、姉夫黄琬が劉璋の祖母の甥であった縁で璋が琬の妻を迎え入れると、敏も姉と共に蜀に入り劉璋の賓客となった。書籍を渉猟し『左氏春秋』を善くし、『倉』『雅』の訓詁に精通し文字の正誤を正すことを好んだ。劉備の益州平定後は典学校尉、太子擁立後は家令、後主践祚後は虎賁中郎将となった。丞相亮が漢中に住した際、軍祭酒・輔軍将軍としたが事に坐し職を去った。
  • 亮の教書に、敏が上官に「新人になぜ功徳もなく私の栄資を奪われるのか、皆が私を憎むのはなぜだ」と発言したことを咎め、「敏は老いて狂悖、この怨言を発した。かつて成都平定時、来敏は群れを乱すと議されたが先帝は新定の際ゆえ寛容し用いなかった。後に劉子初(劉巴)が太子家令に推挙した際も先帝は不快ながら拒まなかった。後主即位後、私は人を見る目に暗く再び将軍祭酒に抜擢し、議者の見識にも先帝の意にも背いたが、それでも敦厚な影響を期待した。今それも叶わず、退職を命じ門を閉じて過ちを思わせる」との記述が残る。
  • 亮の没後、成都に戻り大長秋となるも免官、後に累進して光禄大夫となるが再び過失で黜けられた。前後の貶謫は皆言動不節によるもの。当時孟光も慎みのない言動で時政に干渉したが敏よりはましで、共に耆宿学士として世に礼された。敏は荊楚の名族・東宮旧臣として優遇され、廃されては復帰した。後に執慎将軍とされ(官の重みで自戒させる意図)、九十七歳、景耀年間(258〜263年)に没した。子の忠も博覧経学で敏の風があり、尚書の向充らと共に大将軍姜維を協賛し、維に参軍として重用された。