三國志卷四十一 蜀書十一 張裔

劉璋時代から先主帰順まで

  • 張裔は字を君嗣といい、蜀郡成都の人。『公羊春秋』を修め史記・漢書にも通じた。汝南の許文休(許靖)は入蜀すると張裔の才幹と敏捷さを評して「中原の鍾元常(鍾繇)の類だ」と評した。
  • 劉璋の時代、孝廉に挙げられ魚復長となり、州に戻って従事となり帳下司馬を兼ねた。張飛が荊州から墊江を経て入った際、劉璋は張裔に兵を授け德陽陌下で防がせたが敗れて成都に戻った。劉璋のために先主への使者として赴き、先主が「その主(劉璋)を礼を以て遇し民を安んじる」と約したことで、張裔が帰ると成都の城門が開かれた。先主は張裔を巴郡太守とし、後に司金中郎将として農戦の道具の製作を司らせた。
  • これより先、益州郡が太守正昂を殺し、豪族雍闓が南方で信望を集め孫権と通じていたため、張裔を益州太守としてそのまま郡へ赴かせた。雍闓は躊躇して服さず、鬼神の教えと偽って「張府君(張裔)は瓠(ひょうたん)のようだ、外は艶やかでも中身は粗末だ、殺すには及ばない、縛って呉に送れ」と唱え、張裔を孫権のもとへ送った。

呉での抑留と脱出

  • 先主が薨去すると、諸葛亮は鄧芝を呉への使者に遣わし、話の折に張裔の帰還を孫権に請うよう指示した。張裔は呉に至って数年、逃亡・潜伏を続け孫権はその存在を知らなかったため、鄧芝の要求をあっさりと許した。張裔の出発に際し孫権は引見し「蜀の卓氏の寡婦が司馬相如のもとへ奔ったというが、貴国の風俗はなぜそのようなのか」と問うと、張裔は「卓氏の寡婦は買臣(朱買臣)の妻よりはましだと思います」と答えた。孫権はさらに「君が帰れば必ず西朝で重用され、田舎の一庶民に終わることはないだろう、何を持って我に報いるか」と問うと、張裔は「私は罪を負って帰るので、命は有司に委ねます。もし幸いにも首領を保てれば、58歳以前は父母の年、それ以降は大王の賜物です」と答えた。孫権は喜んで笑い、張裔を高く評価する様子を見せた。張裔は退出すると愚を装えなかったことを悔い、すぐさま船に乗り昼夜兼行で帰路についた。孫権は果たして追手を出したが、張裔はすでに永安の境に入り数十里進んでいたため追いつけなかった。

蜀漢での重用と交際

  • 蜀に帰ると丞相諸葛亮は張裔を参軍として府事を管掌させ、また益州治中従事を兼ねさせた。諸葛亮が漢中に出駐すると、張裔は射声校尉のまま留府長史を兼ね、常に「公(諸葛亮)の賞は遠きを遺さず、罰は近きに阿らず、爵は功なくして得られず、刑は貴勢によって免れない、これが賢愚を問わず皆が身を捧げる所以だ」と称した。
  • 翌年、北へ諸葛亮のもとに事を諮問しに行った際、見送りの者は数百人に及び車馬が道を埋めた。張裔は親しい者への書簡で「近頃道中では昼夜客の応対に追われ休む暇もなかった、人々は丞相長史を敬うために張君嗣(自分)に付き従っているだけなのに、疲れて死にそうだ」と書いた。彼の談笑の応答はこの類が多かった。
  • 若い頃、犍為の楊恭と親しく、楊恭が早世すると幼い遺孤を引き取り屋敷を分けて住まわせ、楊恭の母に自分の母同様に仕えた。楊恭の子が成長すると妻を娶らせ、田宅・産業を買い与えて一家を立てさせた。旧知を助け衰えた宗族を援助する義に篤かった。輔漢将軍を加えられ、長史はそのまま兼ねた。建興8年〈230年〉に没した。子の張毣が跡を継ぎ、3郡の太守・監軍を歴任した。毣の子張郁は太子中庶子となった。