三國志卷四十一 蜀書十一 王連

塩鉄の利と南征諫止

  • 王連は字を文儀といい、南陽の人。劉璋の時代に入蜀し梓潼令となった。先主が葭萌で挙兵し軍を南へ進めた際、王連は城を閉ざして降らなかったが、先主はその義を認め強要しなかった。
  • 成都平定後、什邡令となり、広都に転じ治績を挙げた。司塩校尉に遷り塩鉄の利を管理し利益は大変多く国用を大いに助けたため、良才を選抜して官属とし、呂乂・杜祺・劉幹らはいずれも大官に至ったが、これは皆王連が抜擢した者であった。蜀郡太守・興業将軍に遷り、塩府を治めることは以前通りとした。
  • 建興元年〈223年〉、屯騎校尉を拝命し丞相長史を兼ね、平陽亭侯に封じられた。当時南方諸郡が服さず諸葛亮が自ら親征しようとした際、王連は「この地は不毛の地・疫病の郷であり、国の期待を一身に集める公が危険を冒して赴くべきではない」と諫めた。諸葛亮は諸将の才が自分に及ばないと考え自ら赴くつもりであったが、王連の諫言が懇篤であったため出兵は長く見合わされた。まもなく王連は没した。子の王山が跡を継ぎ江陽太守に至った。