三國志卷三十六 蜀書六 趙雲
趙雲、字は子龍、常山真定の人。もと公孫瓚に仕え、のち劉備に古参として従った。当陽長阪で劉禅と甘夫人を守り、益州平定戦や漢水での戦いで武勇と沈着さを示し、劉備に「一身、都て是れ胆なり」と称され虎威将軍と呼ばれた。建興七年に没し順平侯と諡された。
趙雲
- 趙雲、字は子龍、常山真定の人。もと公孫瓚に属し、公孫瓚が劉備を田楷の援護に遣わした際に従い、劉備の主騎となった。兄の喪で公孫瓚から一時離れた際、劉備は雲が裏切らないと知り手を握って別れ、雲は「終に徳に背かず」と誓った。劉備が袁紹の下にいた頃、雲は密かに数百人を募り劉左将軍部曲と称して合流、荊州まで随従した。
- 劉備が当陽長阪で曹操に追われ妻子を置いて逃げた際、雲は幼い後主(劉禅)を抱き甘夫人(後主の母)を守って難を免れた。牙門将軍に遷り、劉備の入蜀後は荊州に留まった。平定後、偏将軍・桂陽太守(趙範の後任)となり、趙範の寡嫂樊氏を娶るよう勧められたが「同姓であり彼の兄は我が兄も同じ」と固辞、後に趙範は逃亡したが雲には何の咎めもなかった。夏侯惇との博望の戦いで生け捕った夏侯蘭(雲の同郷)を先主に薦め、自らは近づけず軍正の任にとどめた慎重さも伝わる。
- 劉備の入蜀に際し留営司馬となり、孫夫人(孫権の妹)の専横を抑える任も担った。孫権が妹を呉に連れ戻そうとし後主も連れ去ろうとした際、雲は張飛と共に江を遮って後主を取り戻した。
- 劉備の劉璋攻めで諸葛亮・張飛らと長江を遡って諸郡を平定、成都平定後は翊軍将軍となった。益州の屋敷・田地を諸将に分与する議に対し、雲は「霍去病が匈奴未滅を理由に私邸を持たなかった故事」を引いて反対し、天下平定後に民へ田宅を返すべきと説き、劉備はこれに従った。
- 夏侯淵敗死後、曹操が漢中の米を運ぶのを黄忠が奪おうとした際、雲は忠の帰還が遅れたため少数で迎えに出て曹操の大軍に遭遇、包囲を突破して味方を救出、負傷した張著も救った。曹操軍が営まで追ってきた際、雲は門を大きく開き旗を伏せ鼓を止める空城の計を用い、追撃に転じて曹操軍を混乱させ、多くを漢水に追い落とした。翌朝、劉備は自ら陣を検分し「子龍の一身、都て是れ胆なり」と称え、軍中で雲は「虎威将軍」と呼ばれた。
- 孫権の荊州襲撃に劉備が激怒し東征を図った際、雲は「国賊は曹操であり孫権ではない、まず魏を滅ぼせば呉は自ら服す」と諫めたが、劉備は聞かず東征、雲は江州に留め置かれた。劉備が秭帰で敗れた際は雲が永安まで進出し呉軍を退けた。
- 建興元年、中護軍・征南将軍・永昌亭侯、のち鎮東将軍。建興五年、諸葛亮の漢中駐屯に従う。翌年、亮が斜谷道から出るふりをした際、雲と鄧芝がその疑兵を担ったが箕谷で敗れ、軍を退いて鎮軍将軍に降格された。ただし雲は自ら殿を務め軍資を失わず統制を保ったと鄧芝は証言し、亮はこれを高く評価した。雲は余った絹の下賜を辞退し、冬の恩賞に回すよう求め、亮に称賛された。
- 建興七年、没し、順平侯と諡された。生前に諡を受けたのは法正のみであったが、雲は関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠らとともに追諡され、世に栄誉とされた。大将軍姜維らの議では、雲の当陽での義勇と長年の功績を称え「柔賢慈恵を順、執事有班・克定禍乱を平とする」諡法に基づき「順平侯」と定めたとある。子の趙統が跡を継ぎ虎賁中郎に至り、次子の趙広は牙門将として姜維に従い戦死した。
史論(評)
- 陳寿評す。関羽・張飛はともに万人の敵と称され当代の虎臣であった。羽は曹操への恩に報い、飛は厳顔を義によって釈放するなど国士の風があった。しかし羽は剛にして自らを恃み、飛は暴にして恩に薄く、それぞれの短所によって敗れたのは道理の常であろう。馬超は戎に頼み勇に任せてその一族を滅ぼした、惜しいことである。窮しても泰へと転じ得たのは、なおましというべきか。黄忠・趙雲は強壮にして猛々しく、ともに股肱の臣として、灌嬰・滕公のような存在であったといえよう。