三國志卷二十八 王毌丘諸葛鄧鍾傳第二十八 鍾會

鍾会(字は士季、潁川長社の人、太傅鍾繇の末子)は幼くして才知に優れ、司馬師・司馬昭に信任されて機密の謀議に参じた魏末の重臣。蜀漢征討では総司令として剣閣で姜維を抑え、鄧艾の陰平越えと相まって蜀を滅ぼす功を立てたが、鄧艾を讒言で失脚させたのち自らも謀反を企て、景元五年正月、部下の反乱に遭って殺された。享年四十。

年表(13件)
  • 黄初六年生まれる
  • 正始年間秘書郎となり、尚書中書侍郎に遷る
  • 正元二年司馬師の東征に従い機密の謀議に与る
  • 甘露二年諸葛誕の不服従を予見して司馬昭に告げる
  • 甘露二年二月母が薨去する。享年五十九
  • 甘露三年策謀により全懌ら呉将を寿春から降伏させる
  • 景元三年冬鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事となる
  • 景元四年秋十余万の軍を率い斜谷・駱谷から蜀へ進攻する
  • 景元四年剣閣で姜維を防ぎきれず、鄧艾の別動隊が先に成都へ迫る
  • 景元四年姜維が鍾会に降り、司徒に任じられ食邑一万戸を増される
  • 景元五年正月鄧艾の謀反を告げ、成都で太后の偽詔により挙兵する
  • 景元五年正月十八日兵の反乱に遭い殺される。時に四十歳
  • 正始十年王弼、曹爽が廃されて免官され、その秋、疫病で没す。享年二十四

出自と母の逸話

  • 鍾会、字は士季、潁川長社の人、太傅鍾繇の末子である。幼くして聡明で早熟であった。鍾会が母のために著した伝によれば、母張氏(字昌蒲)は太原茲氏の人で太傅定陵成侯(鍾繇)の命婦であった。幼くして父母を失い鍾家に引き取られ、身を修め正しく行動し礼にかなわぬことをしなかったため上下から称賛された。しかし嫡を専らにしていた寵妾孫氏は張氏の賢さを妬みしばしば讒言した。孫氏は弁が立ち機知に富み、非を飾り過ちを成すことができたが、それでも張氏を傷つけることはできなかった。張氏が妊娠すると孫氏の嫉妬はいよいよ募り食事に毒を仕込んだが、張氏は口にして異変に気づき吐き出し数日苦しんだ。ある人が「なぜ主君にお告げにならぬのか」と尋ねると、張氏は「嫡庶が互いに害し合えば家は破れ国も危うくなる、これは古今の戒めである。もし主君が私を信じても誰がその事を明らかにできよう。あちらは私が必ず言うと見て先手を打つだろう、事の発覚は彼の側から起こる方が良いではないか」と答え、病と称して人に会わなかった。果たして孫氏は成侯(鍾繇)に「妾は夫人に男子を得させたく男子を授かる薬を飲ませたところ、逆に毒を盛ったと言われました」と訴えたが、成侯は「男子を授かる薬なら結構なことだが、密かに食事に混ぜるのは人情に反する」と侍者を尋問しみな白状させ、孫氏はこれにより罪を得て出された。成侯が張氏になぜ黙っていたのか問うと張氏はその理由を語り、成侯は大いに驚きこれによりいよいよ張氏を賢としたという。黄初六年に鍾会が生まれ寵愛はいよいよ厚くなった。成侯は孫氏を出した後、正嫡として賈氏を新たに娶ったという(裴松之は、鍾繇はすでに老齢でありながら改めて正室を娶ったのは、礼にいう「宗子は七十であっても主婦なきことなし」の義によるものだろうと注する。『魏氏春秋』によれば、鍾会の母が鍾繇に寵愛されたため鍾繇は正夫人を出そうとし、卞太后がこれを咎めたため文帝の詔で夫人を復させ、鍾繇は憤って毒を仰ごうとしたが果たせず椒を食べてむせて発せなくなり、文帝はこれを見て思いとどまらせたという)。中護軍蒋済は「人の瞳を見れば人物を知るに足る」と論じたが、鍾会が五歳の時、鍾繇が蒋済に会わせるとひどく驚き「並みの人物ではない」と評したという。壮年になると才知と諸芸に長け博学で名理に精通し、夜を日に継いで学び声誉を得た。

秘書郎から中書侍郎、司馬師との出会い

  • 正始年間、秘書郎となり尚書中書侍郎に遷った。『世語』によれば、司馬師が中書令虞松に上表文を作らせたが何度出しても意に沿わず、虞松は思案し尽くして直せず苦悩が顔色に表れた。鍾会がその憂いを察して問うと虞松は正直に答え、鍾会は文を取って五字を改めただけで済ませた。虞松は感服してこれを司馬師に呈すると、司馬師は「これは自分の手ではあるまい、誰が直したのか」と問い、虞松は「鍾会です、先ほど自ら申し出ようとしたところでした」と答えた。司馬師は「それほどの人物なら大いに用いられよう、呼び寄せるがよい」と言った。鍾会は虞松に司馬師の人物を尋ね「博学で見識明らかならざるところなし」と聞くと、賓客を絶ち十日間精思し、夜明けに参内して二更(夜半頃)にようやく退出した。退出後、司馬師は独り手を打って嘆じ「これぞまことに王佐の材である」と言ったという(裴松之は、鍾会ほどの名家の子で早くから声誉あり若くして高位に登っていた人物を司馬師が知らぬはずがなく、虞松の上表を直しただけで見出されたという話には疑問を呈している)。高貴郷公の即位で関内侯を賜った。

毌丘儉の乱と司馬昭政権の成立

  • 毌丘儉の乱に際し、大将軍司馬師の東征に従い機密の事に与り、衛将軍司馬昭は後続の大軍を率いた。司馬師が許昌で薨じると司馬昭が六軍を統べ、鍾会は帷幕で謀議を担った。当時、朝廷から尚書傅嘏に密勅が下り、東南がようやく定まったばかりであるとして衛将軍を許昌に留め内外の援けとし、傅嘏に諸軍を率いて帰還させようとした。鍾会は傅嘏と謀り、傅嘏に上表させると同時に衛将軍とともに出発させ、洛水の南まで戻って駐屯させた。これにより朝廷は司馬昭を大将軍・輔政とし、鍾会は黄門侍郎に遷り東武亭侯に封ぜられ食邑三百戸を得た。

甘露二年の母の死

  • 甘露二年、諸葛誕を召して司空とした際、鍾会は喪に服し家にあったが諸葛誕が必ず命に従わないと予見し馳せて司馬昭に告げたが、司馬昭はすでに手続きが進んでいたため改めなかった。この頃、鍾会は実母の喪に服した。その母伝によれば、母は性格が厳しく教育に明るく、鍾会が四歳で『孝経』を、七歳で『論語』を、八歳で『詩経』を、十歳で『尚書』を、十一歳で『易』を、十二歳で『春秋左氏伝』『国語』を、十三歳で『周礼』『礼記』を、十四歳で『成侯易記』を授けられて誦し、十五歳で太学に入り四方の異説を学ばせたという。とりわけ書物を好み『易』『老子』を愛読し、鳴鶴在陰・労謙君子・籍用白茅・不出戸庭の義を繰り返し読ませ、「易三百余爻の中で孔子が特にこれらを説いたのは、謙虚慎密こそ身を立てる要かつ栄達の由縁だからだ、この教えに従えば君子たりうる」と説いた。正始八年、鍾会が尚書郎になると、母は手を取り「お前は弱冠で用いられた、人情として自足すれば損なうことにもなる、努めて戒めを思え」と諭した。当時、大将軍曹爽が朝政を専らにし日夜酒に溺れていたことを、鍾会の兄で侍中の鍾毓が宴から帰り語ると、母は「楽しいことは楽しいが久しく続くまい。驕らず節度を守ってこそ危うさを免れる。今のような奢侈と僭上は富貴を長く保つ道ではない」と述べた。嘉平元年、天子が高平陵に参拝した際、鍾会は中書郎として供奉し、相国宣文侯(司馬懿)が挙兵すると人々は恐れたが母は動じなかった。中書令劉放・侍郎衛瓘・夏侯和らの家人が「あなたの一子は危難の中にいるのになぜ心配しないのか」と怪しんで問うと、「大将軍の奢りは度を過ぎ私はかねて不安を疑っていた。太傅は義において国を危うくすまい、必ず大将軍への挙兵に過ぎまい。息子は帝のそばにいる、何を憂えることがあろう。聞けば出兵しても重い武具を伴っていないという、勢いから見て長くは戦うまい」と答え、果たしてその通りとなり一時明察と称された。鍾会は機密の職に十余年在り、政謀にも与ることが多かった。母は「昔、范氏の末子が趙簡子に邾討伐の計を進言し民の心に沿った点では功と言えるが、母親はそれを偽計に基づく末業と評し長続きしないだろうと見抜いた、その見識は深く並みの人の言えることではない、私はその人柄を常に好ましく思ってきた。お前は心を正しく持っている、私はもう心配ない。ただ志を修めて時の教化を助け先人を辱めぬようにせよ」と諭した。鍾会は幼少より衣服は青紺の質素なもので身を通し家事も自ら営み恭倹をわきまえていた。利得を前にしては義を思い財を前にしては必ず譲った。前後に賜った銭帛は数百万を数えたがすべて公用に供し一切自らのものとしなかった。享年五十九、甘露二年二月に急病で薨じた。葬儀に際し天子は自ら詔を下し大将軍高都侯に厚く賻贈させ、喪事は大小を問わずすべて供給させた。議論する者は公侯の家には夫人・世婦・妻・妾(外命婦)の別があるとし、春秋の成風・定姒の故事に倣い典礼を崇め単に妾と総称すべきでないとし、成侯命婦と称された。諸葛誕が反した際、天子の車駕は項に留まり司馬昭が寿春に至った際、鍾会は再びこれに従った。

全懌降伏の策謀

  • 当初、呉の大将全琮は孫権の姻戚重臣であり、その子の全懌・全静、甥の全端・全翩・全緝らはみな兵を率いて諸葛誕を救援に来ていた。全懌の兄の子である全輝・全儀は建業に残っていたが、家内の争いから母を連れ部曲数十家とともに長江を渡り司馬昭に帰順した。鍾会は策を立て密かに全輝・全儀の名で書を偽造し、彼らの信頼する者に城内へ届けさせ、呉の朝廷が全懌らの寿春陥落の遅れに怒り諸将の家族を皆殺しにしようとしているため逃れてきたと告げさせた。全懌らは恐れてついに配下を率い東城門を開いて出て降伏し、みな封爵と寵遇を受けたため、城中はこれにより離反が広がった。寿春の陥落は鍾会の策謀によるところが大きく、その待遇は日ごとに厚くなり、当時の人々は彼を張良になぞらえた。軍が戻ると太僕に遷されたが固辞して受けなかった。中郎として大将軍府の記室事を管掌し腹心として頼られた。諸葛誕討伐の功により陳侯に爵を進められたが再三固辞し、詔で「鍾会は軍事を統括し計策に参与し、敵情を見極め勝ちを制した謀の功があるにもかかわらず、寵を推し固く辞退しその言葉は誠実そのもの、志は動かしがたい。功を成しても地位に留まらぬのは古人が重んじたところ、その望みを聞き入れ美事とせよ」とされた。司隷校尉に遷った。外朝の職にありながら当時の政治の得失や人事の可否についてすべてに関与し、嵆康らの誅殺もみな鍾会の謀によるものであった。

蜀漢征討の指揮

  • 司馬昭は蜀の大将姜維がしばしば辺境を騒がすことから、蜀は国が小さく民も疲れ資力が尽きていると見て大挙して蜀を図ろうと考えた。鍾会も蜀は取れると考え、あらかじめ地形を測り事勢を論じ合った。景元三年冬、鍾会は鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事となった。司馬昭は青・徐・兖・豫・荊・揚の諸州に船を作らせ、また唐咨に外洋を渡る大船を作らせ、表向きは呉を伐つように見せかけた。四年秋、詔が下り鄧艾・諸葛緒にそれぞれ三万余人を統率させ、鄧艾は甘松・沓中で姜維を牽制し、諸葛緒は武街・橋頭で姜維の帰路を断つこととした。鍾会は十余万の軍を斜谷・駱谷の二道から進めた。先鋒の牙門将許儀に道を整えさせたが橋が壊れ馬の脚が陥ったため鍾会は許儀を斬った。許儀は許褚の子で王室に功があったにもかかわらず容赦されず、諸軍はこれを聞いて震え上がった。蜀は諸方の陣を守らせても戦わせず漢城・楽城の二城に退かせた。魏興太守劉欽が子午谷を進み、諸軍は数道を並行して漢中に至った。蜀の監軍王含が楽城を、護軍蒋斌が漢城を守り兵はそれぞれ五千。鍾会は護軍荀愷・前将軍李輔にそれぞれ一万を統べさせ、荀愷に漢城を、李輔に楽城を包囲させた。鍾会自身はそのまま西の陽安口へ出て人を遣わし諸葛亮の墓を祭らせた。護軍胡烈らを先頭に関城を攻め破らせ、蔵に積まれた穀物を得た。姜維は沓中から戻り陰平に至って兵を集め関城へ向かおうとしたが、すでに落ちたと聞き白水へ退き、蜀の将張翼・廖化らと合流して剣閣を守り鍾会を防いだ。

剣閣攻防と檄文

  • 鍾会は蜀の将吏士民に檄を移し(要旨)、漢朝の衰えを太祖武皇帝・高祖文皇帝・烈祖明皇帝の三代が支え直したが、なお巴蜀のみが王化に浴していないことは三祖の遺恨であったとし、今、主上と宰輔(司馬昭)の徳が万邦・百蛮に及ぶ中、なお巴蜀の民だけが労役に苦しんでいることを悼み、鎮西・雍州・鎮西の諸軍五道並進で天罰を行うとした。王者の師は征しても戦わぬことを理想とすると述べ、益州の先主劉備の興隆以来、諸葛亮・姜維がしばしば秦川・隴右へ出兵し国境を煩わせてきた経緯や、段谷・侯和の敗戦で疲弊し久しく安寧のない蜀の現状を指摘し、蜀の宰相の運命や公孫述の末路を引いて天険も一姓に恃むものではないと説いた。微子が殷を去り周の賓となり陳平が項羽に背いて漢に功を立てた故事を挙げ、呉の孫壱・文欽・唐咨らが帰順・降伏後に厚遇された例を示し、蜀の賢知の士も機を見て身を処すべきと説き、安逸をむさぼり迷って抵抗すれば大軍の前に玉石ともに砕かれ悔いても及ばぬと結んだ。

鄧艾との軋轢と蜀平定

  • 鄧艾が姜維を陰平まで追い、精鋭を選んで漢徳陽から江由・左儋道を経て綿竹に向かい成都を目指すことにし、諸葛緒とともに行動しようとした。しかし諸葛緒は本来受けていた指示は姜維を邀撃することであり西進は詔命にないとして進軍を拒み、白水へ向かい鍾会と合流した。鍾会は将軍田章らを剣閣の西から江由へ直進させ、江由まで百里に満たぬ地点で田章はまず蜀の伏兵三隊を破り、鄧艾はこれを先鋒とした。そのまま長駆して進んだ。鍾会と諸葛緒の軍が剣閣へ向かう中、鍾会は軍権を独占しようと諸葛緒が臆病で進まないと密告し、諸葛緒は檻車で召還され軍はことごとく鍾会に属することとなった(諸葛緒はのち晋に入り太常・崇礼衛尉となり、子の諸葛沖は廷尉、その子諸葛詮・諸葛玫もともに顕達したという)。剣閣への攻撃は成功せず退き、蜀軍は険を保って守った。鄧艾はついに綿竹に至り大戦し諸葛瞻を斬った。姜維らは諸葛瞻がすでに敗れたと聞き軍を率い東の巴へ入った。鍾会は涪まで軍を進め、胡烈・田続・龐会らに姜維を追わせた。鄧艾は成都へ軍を進め、劉禅は鄧艾のもとへ降り、姜維らに鍾会への降伏を命ずる使者を送った。姜維は広漢郪県に至り兵に武器をすべて捨てさせ、節と符伝を胡烈に送り、東の道から鍾会に降った。
  • 鍾会は上言し(要旨)、賊将姜維・張翼・廖化・董厥らが死を逃れて成都へ向かおうとしたため、司馬夏侯咸・護軍胡烈らを剣閣から新都・大渡へ、参軍爰𩇕・将軍句安らをその背後へ、参軍皇甫闓・将軍王買らを涪の南から腹心を衝かせ、自らは涪県で東西の勢力の援護に当たり、四方から網を張って退路を断ったところ、姜維らはついに戦意を失い甲を脱ぎ武器を投げ出して降り、印綬は万を数え物資・武具は山のように積まれたと報告し、これを舜の徳や牧野の戦いの故事になぞらえ、征して戦わずして勝つことこそ帝王の盛業であるとし、司馬昭の仁徳と自らが導いた恩化により百姓が安堵し新たな生活を得たことを称える文言で結んだ。

姜維との結託

  • 鍾会はこれにより士卒の略奪を禁じ、謙虚に人心を集め蜀の旧臣たちを迎え入れ、姜維とは特に深い誼を結んだ。『世語』『漢晋春秋』によれば、蜀に降っていた夏侯覇がかつて姜維に「司馬公(司馬懿)の徳はどうか」と問われ「自ずと一家をなす人物だ」と答え、「京師の俊才は」と問われ「鍾士季(鍾会)という者がおり、朝政を掌れば呉・蜀の憂いとなろう」と答えたという逸話が伝わり、後にその通り十五年を経て鍾会は蜀を滅ぼした。十二月、詔で「鍾会は向かうところ敵を打ち破り前に強敵なく、多くの城を制圧し逃亡者を網羅した。蜀の豪族はみな縛られて帰順し、計略に外れなく挙兵に無駄はなかった。降伏・誅殺した者は万を数え、全勝を独り占めし征しても戦わずに済んだ。西夏を切り開き平定し辺境は清らかに治まった」として司馬昭は鍾会を司徒とし県侯に進封し食邑一万戸を増し、子二人を亭侯とし各千戸とした。

謀反と最期

  • 鍾会は内心に異志を抱いており、鄧艾が承制して専断していることを利用し密かに鄧艾に謀反の兆しがあると告げた(『世語』によれば鍾会は人の筆跡を真似るのが巧みで、剣閣で鄧艾の上表文を横取りしその言葉を悖傲で自惚れの強い調子に書き換え、また司馬昭からの返書も改竄して疑いを招いたという)。これにより詔で檻車による鄧艾召還が命じられた。司馬昭は鄧艾が命に従わないことを恐れ、鍾会に成都へ進軍させるとともに、監軍衛瓘を鍾会に先んじて行かせ司馬昭直筆の書で鄧艾軍に諭させたところ、鄧艾軍はみな武器を捨て鄧艾は檻車に収められた。鍾会が恐れていたのは鄧艾だけであったが、鄧艾が捕らえられ鍾会が到着すると、独り大軍を統べその威は西土を震わせた。鍾会は自らの功名は世に並ぶ者なく再び人の下に立つことはできぬと考え、猛将精兵がみな自分の手にあることもあって謀反を企てた。姜維らに蜀兵を率いて斜谷から出させ、自らは大軍を率いてその後に続き、長安に至れば騎兵を陸路、歩兵を水路で渭水から黄河へ下らせ五日で孟津に至り騎兵と洛陽で合流すれば一挙に天下を定められると考えた。
  • 鍾会は司馬昭からの書に「鄧艾がもしや命に従わぬことを恐れ、中護軍賈充に歩騎一万を率いさせ斜谷へ入り楽城に駐屯させる、私自身も十万を率いて長安に駐屯する、まもなく相見えよう」とあるのを受け取ると、驚いて親しい者を呼び「鄧艾を取るだけなら相国(司馬昭)は私一人で十分できると知っているはず。今こうして大軍を送るからには私を疑っているに違いない、速やかに事を起こすべきだ。成功すれば天下を得られ、失敗しても蜀漢に退いて劉備のようになれる。私は淮南の役以来、失策は一つもなく四海の知るところだ。この才覚を抱いて誰に屈しようか」と語った。鍾会は五年正月十五日に成都へ至り、翌日、護軍・郡守・牙門騎督以上及び蜀の旧官をすべて呼び集め、太后(郭太后)のために蜀の朝堂で発喪すると称し、太后の遺詔を偽って自らに司馬昭を廃する挙兵を命じたと披露し、居合わせた者に議論させた上で名簿に署名させ、自らの腹心を代わりに諸軍の指揮に就けた。召集した官吏たちは益州の諸官庁の建物に閉じ込め、城門・宮門を閉ざし厳重に守らせた。
  • 鍾会の帳下督丘建は元は胡烈の属官で、胡烈が司馬昭に推挙したことがあり、鍾会も丘建を求めて手元に置き寵愛していた。丘建は独り軟禁されている胡烈を憐れみ鍾会に願い出て一人の親兵を出入りさせ食事を運ばせることを許し、他の牙門もそれぞれ一人ずつ内に入れることとなった。胡烈は密かに親兵と自分の子への言伝てに「丘建が密かに知らせてくれた、鍾会はすでに大きな穴を掘り数千本の白い棓(棒)を用意している。外兵をみな呼び入れ白い頭巾を与えて散将に任じ、順に穴の中で棓打ちにするつもりだ」と語らせた。これが牙門の親兵たちにも広まり一夜のうちに伝わり尽くした。ある者は「牙門騎督以上を今すぐ皆殺しにすべきだ」と鍾会に進言したが、鍾会はなお決断できなかった。
  • 十八日の日中、胡烈の軍兵と胡烈の子が太鼓を打ち鳴らして門を出ると、諸軍の兵は誰に督促されるでもなく一斉に鼓譟して駆け出し、我先に城へ向かった。ちょうど姜維に甲と武器を渡していたところに、外が騒然として火事かと思われる様子が伝わり、まもなく兵が城へ向かっていると報告があった。鍾会は驚いて姜維に「兵が乱を起こそうとしているようだ、どうすべきか」と問うと、姜維は「ただ撃つのみです」と答えた。鍾会は閉じ込めていた牙門・郡守らを殺そうと兵を遣わしたが、閉じ込められていた者たちは機(かんぬき)で門をつっかえさせ兵の斧でも破れなかった。まもなく門外から梯子をかけて城壁を登り建物に火をかける者もあり蟻のように攻め上り、矢が雨のように降った。牙門・郡守たちは建物の屋根伝いに脱出し自らの兵と合流した。姜維は鍾会の側近を率いて戦い自ら五、六人を斬ったが、衆に討たれ斬られ、続いて人々は鍾会にも殺到した。鍾会は時に四十歳、この日死んだ将士は数百人に及んだ。

一族の処置

  • 当初、鄧艾は太尉、鍾会は司徒に任じられ、ともに持節・都督諸軍は元のままとされていたが、いずれも正式な任命を受けぬまま死んだ。鍾会の兄鍾毓はこの年冬にすでに薨じており、鍾会はついにその訃報を知らなかった。鍾会の兄の子鍾邕は鍾会に従い共に死んだが、鍾会が養っていた兄のもう一人の子鍾毅、および鍾峻・鍾辿は反乱に連座せず、司馬昭は天子に上表し「鍾峻らの祖父鍾繇は三代にわたり台司の位を極め佐命の功を立て廟庭に祀られている。父の鍾毓も内外の官を歴任し治績があった。かつて楚は子文の徳を思い闘氏の祀りを絶やさず、晋は成宣の忠を録して趙氏の後を存した故事に倣い、鍾会・鍾邕の罪によって鍾繇・鍾毓の血統を絶やすには忍びない。峻・辿兄弟は特に赦し官爵ある者は元のままとする。ただし鍾毅と鍾邕の子だけは法に伏させよ」とした。ある説では鍾毓がかつて密かに司馬昭に鍾会は術策を弄する信用しがたい人物であると進言していたため峻らが赦されたともいう(『漢晋春秋』によれば司馬昭はその忠を嘉し「もしその通りだったなら一族は及ばずに済んだだろう」と笑って答えたという)。

司馬昭の先見と評

  • 当初、司馬昭が鍾会を蜀討伐に遣わそうとした際、西曹属邵悌は「鍾会に十万余の兵を率いさせるのは単身で重責を負わせるようなもの、他の者を遣わすべきだ」と諫めたが、司馬昭は「私がそれを知らぬはずがあろうか。蜀は天下の患いで民を安んじないが、私が討つのは手のひらを指すように容易い。だが人々は蜀は討てぬというばかりだ。人心が臆すれば智勇ともに尽き、それでも強いて用いれば敵の餌食になるだけ。鍾会だけは私と考えを同じくしている。蜀を滅ぼした後、卿の懸念する通りになったとして何ができようか。敗軍の将は勇を語れず亡国の大夫は存続を図れぬというのは、心胆が既に破れているからだ。もし蜀が破れれば遺民は震え上がり事を図るには足りず、中国の将士も帰郷を思い会に同心すまい。もし悪事を働けばただ自ら一族を滅ぼすだけだ。卿は憂えるに及ばぬが、人に漏らすな」と述べた。
  • 鍾会が鄧艾の不軌を告げた際、司馬昭が自ら西征しようとすると、邵悌は再び「鍾会の統べる兵は鄧艾の五、六倍、勅して鍾会に鄧艾を捕えさせればよく自ら赴くには及ばぬ」と述べたが、司馬昭は「以前と違うことを言うな。私は信義をもって人に接するが、人が私を裏切らねば私が先に人を疑うことはない。先日、賈護軍(賈充)に鍾会を疑うかと問われた際、『今、卿を遣わして疑うだろうか』と答えたが賈充も返す言葉がなかった。私が長安に至れば自ずと決着する」と答えた。軍が長安に至ると果たして鍾会はすでに死んでおり、すべて司馬昭の見立て通りであった。
  • 『漢晋春秋』によれば、司馬昭は鍾会の功曹向雄が鍾会の屍を収め葬ったことを聞き咎めたが、向雄は「かつて先王は骨を掩い肉を埋め朽ちた骨にも仁を及ぼした、功罪を先に定めてから葬るものではない。今、王法の誅はすでに行われ法は既に備わっている、私は義に感じて葬っただけで教えに欠けるところはない」と答え、司馬昭はこれを喜び宴を設けて帰らせた。習鑿歯はこれを「向雄はまことに義に勇である。王経のために哭き市人を感動させ、鍾会を葬り明主の心を動かした。忠烈の心はその死を悼むことに現れる」と評した。

著作

  • 鍾会はかつて易に互体なしとする説や才性同異を論じた。死後、その家から二十篇の書『道論』が見つかったが、実際は刑名家の説で文体は鍾会に似ていたという。

王弼――鍾会と並び称された俊才

  • 初め、鍾会が弱冠の頃、山陽の王弼と並び称された。王弼は儒道を論ずることを好み弁舌に優れ『易』『老子』に注を付け、尚書郎となったが二十余歳で没した。王弼、字は輔嗣。何劭がその伝を著した。それによれば、幼くして聡明で十余歳で老子を好み弁が立ち、父の王業は尚書郎であった。当時吏部郎裴徽が弱冠前の王弼を一目見て非凡とし「無こそ万物の拠り所であるのに聖人はあえて語らず、老子はしきりに説くのはなぜか」と問うと、王弼は「聖人は無を体現しているため無を教義とせず、老子は有の立場ゆえに繰り返し無を説くのだ」と答え、傅嘏にも認められた。何晏は吏部尚書として王弼を高く評価し「後生畏るべしとはこの人物のことか、天人の際を語り合える相手だ」と嘆じた。正始年間、黄門侍郎の欠員に際し何晏は賈充・裴秀・朱整を推挙した後、王弼も推そうとしたが、丁謐が曹爽に高邑の王黎を推挙し用いられたため、王弼は台郎に補せられた。王弼が曹爽に謁見した際、道について語り合い他事に及ばなかったため曹爽はこれを軽んじた。まもなく王黎が病没すると曹爽は王沈を後任とし、王弼は結局門下に入れず何晏は嘆いた。台郎としての在任は浅く事功も得意でなく関心を持たなかった。淮南の劉陶は縦横の論で推されており王弼としばしば議論して屈することもあったが、天性の才は他に譲らなかった。性格は温和で理を好み宴遊を楽しみ音律を解し投壺に長けた。その議論の彩りは何晏に及ばなかったが自然な洞察は何晏よりも優れ、しばしば長所を誇り人を笑うことがあったため士君子に疎まれた。鍾会と親しく、鍾会は校練(緻密な議論)を旨としたが常に王弼の高致に服したという。
  • 何晏は聖人に喜怒哀楽なしとする精緻な論を立て鍾会らもこれを継いだが、王弼は異なり「聖人が人に優るのは神明、人と同じなのは五情である。神明に優れるゆえに沖和を体して無に通じ、五情が同じであるがゆえに哀楽なく物に応じることはできない。ゆえに聖人の情とは物に応じながらも物に累されないものだ。今、累されないことをもって物に応じないというのは大きな誤りだ」と論じた。潁川の荀融が王弼の『易』大衍義に異を唱えた際、王弼は答えの中で「明が幽微を極めても自然の性は去りがたい。顔回の器量をもってしても喜びや哀しみを免れなかった。人は情を理に従わせられぬものと侮っていたが、今ようやく自然の性は変えられぬと知った」と述べた。王弼は『老子』に注し指略を著し理路整然としていた。『道略論』を著し『易』に注を付け高遠な言も多かった。太原の王済は談論を好み老荘に耽り「王弼の『易』注を見て悟るところが多かった」と語った。しかし王弼は物事の機微を見抜く力に乏しく、当初親しかった王黎・荀融とも、王黎に黄門郎の座を奪われて恨み、荀融とも終わりを全うできなかった。正始十年、曹爽が廃されると公事により免官された。その秋、疫病にかかり没した、時に二十四歳、子なく家系は絶えた。王弼の死に司馬師(晋景王)はその死を聞いて幾日も嘆いたといい、高い見識の持ち主に惜しまれたことがうかがえる。孫盛は「易は神を窮め化を知る書であり、天下の至精でなければ通じ得ない。世の注釈はほとんど妄りである。まして王弼が牽強付会の弁で玄旨を包括しようとするなど」と批判し、その浮わついた議論を華美な辞句で覆う一方、陰陽の妙理には疎く六爻の変化・時日歳月・五気の推移などにはほとんど関知していないと評した。
  • 『博物記』所引の逸話によれば、王粲とその族兄王凱が荊州へ避難した際、劉表は娘を王粲に嫁がせようとしたが容貌の醜さと軽率さを嫌い風貌の良い王凱に嫁がせた。王凱の子王業は劉表の外孫にあたる。蔡邕は近万巻の蔵書を晩年に数車分王粲へ贈ったが、王粲の死後その子は魏諷の謀反に連座し誅され、蔡邕の書はことごとく王業に伝わった。王業、字は長緒、官は謁者僕射に至った。その子王宏、字は正宗、司隷校尉。王宏は王弼の兄である。『魏氏春秋』によれば文帝は王粲の二子を誅した後、王業に王粲の後を継がせたという。

【評】

史論

  • 評して言う。王凌は風格節操高く、毌丘倹は才識と実行力に優れ、諸葛誕は厳格威重、鍾会は精緻な策謀に長け、いずれも名を顕し高い地位を得ながらも、心は大きく志は迂遠で禍難を慮らず、事変は弩の引き金が落ちるように起こり一族は塗炭に帰した。何と愚かなことか。鄧艾は毅然として強壮、功業を立てながらも患いへの備えに暗く、たちまち咎めを受けた。諸葛恪の末路には遠く通じながら自らの近くを見通せなかったのは、いにしえに言う「目論(自分のまつげが見えない)」の類であろう(『史記』によれば、越王無彊が斉と争覇した際、斉の使者は「他人の失策は見えても自分の過ちは見えないのは、目が毫毛を見ても自分のまつげを見ないのと同じだ」と越王を諭したという)。