三國志卷二十三 和常楊杜趙裴傳第二十三 楊俊

出自と人物眼

  • 楊俊、字は季才。河内獲嘉の人。陳留の辺讓に学び讓に器量を認められた。兵乱の初めに河内が四方に通じる要衝で戦場となることを見越し、老弱を伴い京・密の山間に赴き百余家が同行した。俊は貧乏な者を振済し財を融通し、奴僕とされた同宗六家をすべて財を投じて贖った。司馬宣王(懿)が十六、七歳の頃、俊は「これは非常の人だ」と評し、また司馬朗が早くから名声があった一方その族兄の芝を人々が知らぬ中、俊は「芝は夙望こそ朗に及ばぬが、実理では優れている」と評した。俊は幷州へ避難し、本郡の王象(孤児で人の僕隷とされ牧羊しながら密かに読書し鞭打たれていた)を才質を愛して贖い出し家に置き娶らせ屋を建ててから独立させた。

太祖・文帝期

  • 太祖は俊を曲梁長とし、丞相掾属に入り茂才に挙げられ安陵令、南陽太守に遷った。徳教を宣べ学校を立て吏民に称された。征南軍師に徙った。魏国建国後、中尉に遷った。太祖の漢中征伐中、魏諷が鄴で反すると俊は自ら罪を訴えたが太子は「楊中尉はなぜそんな高遠な態度を取るのか」と不快に思い平原太守に左遷した。文帝践阼で南陽に復した。散騎常侍王象は俊を推挙し、その純粋な資質・忠粛な度量・仁による感化力・寛にして直な性を称え、南陽での恩徳が異郷にまで及んでいることを述べ本朝への召還を薦めた。

最期

  • 俊は若い頃から人倫の判定を自任としており、同郡の審固・陳留の衛恂は元は兵伍の出であったが俊の抜擢で佳士となり、のち固は郡守、恂は御史・県令に至った。初め臨菑侯(曹植)と俊は親しく、太祖が嗣子を定めかねていた頃、俊は文帝と臨菑侯の才分をともに論じつつも決めかね臨菑を美と称えたことがあり、文帝はこれを長く恨みに思った。黄初三年、車駕が宛に至り市が繁栄していないことに帝が怒り俊を捕らえた。尚書僕射司馬宣王・常侍王象・荀緯が助命を叩頭流血して請うたが帝は許さず、俊は「我が罪を知った」と述べ自殺した。人々はこれを深く冤み痛んだ。