三國志卷二十三 和常楊杜趙裴傳第二十三 常林

出自

  • 常林、字は伯槐。河内温の人。七歳の時、父の知人が門に来て「伯先はいるか、なぜ拝さぬのか」と問うと、林は「客としては下位でも、子として父の字を呼ぶ者に拝する理由はない」と答え、人々はこれを賞賛した。

戦乱期の活躍

  • 幷州刺史高幹が騎都尉に表したが林は辞退した。のち刺史梁習が州内の名士として林・楊俊・王淩・王象・荀緯を推薦し太祖はいずれも県長とした。林は南和を治め治化に成果を上げ、博陵太守・幽州刺史に超遷しいずれも績があった。文帝が五官将であった頃、林は功曹となった。太祖の西征中、田銀・蘇伯が反し幽冀が動揺した際、文帝が自ら討とうとすると、林は「昔博陵に、また幽州にいた身として賊の形勢は分かる、北方の吏民は安を楽しみ乱を厭い久しく教化に服してきた、善を守る者が多い、銀・伯は烏合の衆で智小さく謀大きい、害をなせない、大軍は遠くにあり外に強敵がある今、将軍は天下の鎮、軽々に遠征すれば克っても武とは言えない」と述べ、文帝はこれに従い将を遣わして討たせ即座に平定した。

魏朝での官歴

  • 平原太守・魏郡東部都尉に出て丞相東曹属に入った。魏国建国後、尚書を拝した。文帝践阼で少府に遷り楽陽亭侯に封ぜられた。大司農に転じた。明帝即位で高陽郷侯に進封され光禄勲・太常に徙った。晋宣王(司馬懿)は林を郷邑の耆徳として拝するのを常とした。ある者が「司馬公は貴重な身、君が止めるべきだ」と言うと、林は「司馬公は自ら長幼の序を敦くし後生の法としようとしているだけ、貴きは私の畏れるところではなく、拝は私が制することでもない」と答えた。世論は林の節操の清峻さから公輔に推そうとしたが、林は病篤しと称した。光禄大夫を拝した。八十三歳で薨じ、驃騎将軍を追贈され公礼で葬られ貞侯と諡された。子の旹が嗣ぎ泰山太守となったが法に坐して誅された。旹の弟の靜が嗣封した。

常林の同時代人――吉茂・沐並・時苗

  • 『魏略』は林と吉茂・沐並・時苗の四人を「清介伝」としてまとめる。吉茂、字は叔暢、馮翊池陽の人で世々の著姓。書を好み悪衣悪食を恥じず一物の不知を恥じた。武功南山に隠棲し州の推挙で臨汾令となり清静な政を行った。宗人吉本らの起事に連座し収監されたが、鍾繇の証言で連座を免れた。武陵太守に任じられるも赴任せず酂相に転じ議郎を拝し景初中に病没した。倹約と清廉を貫き、同郡護羌校尉王琰の子嘉が中正として茂を「德優能少」と低く評したことに憤慨する逸話や、兄の黄が科禁を犯し奔喪して伏法した後に自身が挙用された経緯が伝わる。
  • 沐並、字は徳信、河間の人。若くして孤苦、袁紹父子の時代に名吏となった。成皋令の時、校事劉肇の不法な要求に激怒し収縛しようとしたが咎めを受けた。のち三府長史となり牂牁人兵の逸話(「汝は沐徳信のようになりたいのか」との言い回しが異域にまで広まった話)が伝わる。晩年は済陰太守を経て議郎となり、自ら倹葬を戒める長大な遺誡を子に残し、荘子・楊王孫の故事を引き厚葬の風潮を批判した。
  • 時苗、字は徳冑、鉅鹿の人。若くして清白、人の悪を疾んだ。壽春令として令行風靡、揚州治中蒋済との酒宴での行き違いから木像を刻み「酒徒蒋済」と署して的にした逸話、赴任の際に牛と共に来た薄い車を用い離任時に途中で生まれた仔牛を置いて去った清廉の逸話が伝わる。太官令・典農中郎将を歴任し正始中に病没した。