三國志卷二十二 桓二陳徐衛盧傳第二十二 陳羣

潁川許昌の人、字は長文(?–青龍四年)。祖父陳寔・父陳紀とともに名門の出で、若くして孔融にも認められた。初め劉備に仕えたが後に曹操政権に転じ、九品官人法を建てるなど魏の官僚制度整備に尽力した。文帝・明帝の二代に仕え、司空・録尚書事に至った重臣。子の陳泰も西方経略で名を挙げた。

年表(2件)

出自

  • 陳羣、字は長文。潁川許昌の人。祖父の寔・父の紀・叔父の諶はいずれも盛名があった。寔は字を仲弓、紀は字を元方、諶は字を季方といった。羣が子供の頃、寔は常にこれを異とし宗族の父老に「この子は必ず我が宗を興す」と語った。魯国の孔融は高才で倨傲であったが、紀・羣と歳が近く、先に紀と交わりのちに羣と交わり羣を拝するようになり、これにより羣は名を顕した。劉備が豫州に臨む際、羣を別駕に招いた。陶謙が病死し徐州が備を迎え備が赴こうとすると、羣は「袁術はなお強く、東へ行けば必ず争いになる、呂布が将軍の背後を襲えば徐州を得ても事は成らない」と説いたが、備は東へ行き術と戦い、案の定布が下邳を襲い術を助け備軍を大破、備は羣の言を用いなかったことを悔いた。茂才に挙げられ柘令に除されたが赴かず、紀に従い徐州へ避難した。呂布が破れると太祖が羣を司空西曹掾属に招いた。楽安の王模・下邳の周逵を推挙する者があり太祖が招こうとした際、羣は教書を差し戻し二人が徳の劣る者で必ず敗れると述べたが太祖は聞かず、のち二人は姦宄の罪で誅され太祖は羣に謝った。羣は広陵の陳矫・丹陽の戴乾を推挙し太祖はいずれも用いた。のち呉人の叛乱で乾は忠義に死に矯は名臣となり、世は羣を人を知る者とした。蕭・賛・長平の令を歴任し父の喪で去官。のち司徒掾の推挙で治書侍御史となり丞相軍事に参じた。魏国建国後、御史中丞に遷った。

肉刑論

  • 太祖が肉刑の復活を議した際、陳紀の子として父の論を継げるかと問われた羣は、父紀の説として「漢が肉刑を廃し笞刑を増やしたのは仁恻を興そうとしたものだが、かえって死者が増えた、これは名(刑の軽さ)が軽く実(結果)が重いということだ、名が軽ければ罪を犯しやすく実が重ければ民を傷つける」との論を述べ、『書』『易』の刑罰の意義を引き、古の肉刑を用いれば淫者・盗者への処罰が明確になり、漢律の殊死の罪は死刑に及ばぬものの残る死罪を刑罰に代えれば人の躯命を軽んじずに済むと説いた。当時鍾繇も羣と同意見であったが、王朗ら多くの議者は未だ実施すべきでないとし、太祖は繇・羣の言を深く善しとしつつも軍事が止まぬことを理由にこの議論を保留した。

魏朝での要職

  • 羣は侍中に転じ丞相東西曹掾を領した。朝廷では偏りなく名義を重んじ非道を人に貸さなかった。文帝は東宮にあった頃から羣を敬い交友の礼で待し「私に回(顔回)がいるようなもの、門人は日々親しみを増す」と嘆じた。魏王即位に及び昌武亭侯に封ぜられ尚書に徙った。九品官人の法は羣が建てたものである。践阼に及び尚書僕射に遷り侍中を加えられ、尚書令に徙り潁郷侯に進爵。帝の孫権征伐(広陵行幸)では羣に中領軍を領させた。帝が還ると仮節・都督水軍とされた。許昌に還ると鎮軍大将軍・中護軍・録尚書事とされた。帝が病臥すると羣は曹真・司馬宣王らと共に遺詔を受け輔政した。明帝即位で潁陰侯に進封され邑五百を増し前と合わせ千三百戸、征東大将軍曹休・中軍大将軍曹真・抚軍大将軍司馬宣王と共に開府した。ほどなく司空となり録尚書事を兼ねた。

上疏の数々

  • 明帝の親政初め、羣は上疏し『詩』の「儀刑文王、万邦作孚」「刑于寡妻、至于兄弟、以御于家邦」を引き、道は近くから始まり天下に及ぶこと、喪乱以来百姓が王教の本を知らないこと、陛下は崇徳布化して民を恵むべきこと、臣下が雷同すれば是非が覆われる国の大患となること、雠党があれば毀誉が真偽を失うことを説いた。
  • 太和中、曹真が斜谷から数道で蜀を伐とうと表したが、羣は「太祖が昔阳平で張魯を攻めた際も豆麦を多く収め軍糧に充てたが魯は下らず食が乏しかった、今はそれもなく斜谷は険阻で進退が難しく輜重が略奪されやすい、軍を分けて要害を守れば戦力が損なわれる、熟慮すべきだ」と述べ、真がさらに子午道からの進軍を表すると羣はまたその不便と軍事費用の計算を陳べた。詔で羣の議を真に示すも真はこれに拠って出兵、霖雨が続くと羣は真を還らせるべきと再度述べ帝はこれに従った。
  • 皇女の淑が薨じ平原懿公主と追諡された際、羣は上疏し、聖人の礼制には長短・存亡に応じた抑制があること、八歳での下殇には礼が備わらぬこと、まして未だ一年に満たぬのに成人の礼で送り挙朝素衣で哭臨するのは前例がないこと、帝自ら陵に赴くべきでないこと、車駕の摩陂行幸への疑念(避衰や便処移転との噂)を挙げ、吉凶は命による移徙で避けられるものではなく、帝王の動静は天下の安危に関わると諫めたが、帝は聞き入れなかった。
  • 青龍中、宮室の営治で百姓が農時を失った際、羣は禹が唐虞の盛世を承けてもなお宮室を卑しくし衣服を粗末にしたこと、今は喪乱の後で人民が少なく漢の文帝・景帝の時代にすら及ばぬこと、辺境に事があり将士が労苦していること、呉蜀が未だ滅びず社稷が不安であることを述べ、宮室より講武勧農を優先すべきと諫めた。帝は「王者の宮室も並び立てるべきもの、賊を滅ぼした後に役を止めればよい、これは君の職分、蕭何の大略である」と答えたが、羣はさらに漢祖が項羽を滅ぼした後の蕭何の武庫・太倉建設も壮麗を求めなかった例を引き、今は二虜が未だ平定されておらず古と同列に論じるべきでないと重ねて諫めた。帝はこれにより造営を一部減省した。

人柄と評価

  • 初め太祖の時、劉廙が弟の魏諷の謀反に連座し誅されようとした際、羣がこれを太祖に取り成し「廙は名臣、私も赦したいと思っていた」との言葉で復位した。廙が深く感謝すると羣は「刑を議するのは国のためで私のためではない、しかも明主の考えを私が知りようもない」と述べた。その弘博で誇らぬ様はこの類であった。青龍四年薨じ靖侯と諡された。子の泰が嗣いだ。帝は羣の功徳を追思し羣の戸邑を分けて一子を列侯に封じた。

陳羣の子 泰――西方経略

  • 泰、字は玄伯。青龍中、散騎侍郎に除された。正始中、遊撃将軍に徙り并州刺史となり振威将軍を加えられ、使持節・護匈奴中郎将として夷民を懐柔し威恵があった。京邑の貴人が多く宝貨を寄せ泰に奴婢を買わせたが、泰はこれを壁に掛け封を開かず、尚書に徴されると悉く返した。嘉平初め、郭淮に代わり雍州刺史となり奮威将軍を加えられた。蜀の大将軍姜維が麹山に二城を築き牙門将句安・李歆らに守らせ羌胡を糾合して諸郡を侵した際、征西将軍郭淮と泰は防御を謀り、泰は「麹城は堅固でも蜀から険遠、必ず運糧を要する、羌夷は維の労役を嫌い必ずしも従わない、囲んで取れば血刃を交えず落とせる」と述べ、淮はこれに従い泰に討蜀護軍徐質・南安太守鄧艾らを率いさせ包囲、運道と城外の流水を断った。安らは挑戦するも応じず、士は困窮し雪を集めて食い延ばした。維が牛頭山から救援に来ると、泰は「兵法は戦わずして人を屈するを貴ぶ、牛頭を絶てば維に還る道がなくなり、我らの獲物となる」と述べ諸軍に堅塁を守らせ淮に南から白水を渡り牛頭を突いて退路を断つよう進言、淮はこれを善しとし洮水に進軍。維は恐れて遁走し、安らは孤立し降伏した。

陳泰――狄道の危機と対応

  • 淮が薨じ泰が代わって征西将軍・仮節都督雍涼諸軍事となった。数年後、雍州刺史王経が泰に姜維・夏侯霸が祁山・石営・金城の三道から進攻するとの情報を伝え出兵を求めたが、泰は敵勢が三道に及びえないと見て軽々に涼州軍を動かすべきでないと答えた。維らが数万で枹罕に至り狄道へ向かうと、泰は経に狄道への進駐と時機を見た攻略を命じたが、経の軍は故関で戦い敗れ洮水を渡り、泰はこれを危惧し五営を先発させ自ら諸軍を率いた。経はすでに維と戦い大敗し万余人で狄道城に籠り、維はその勢いで狄道を包囲した。泰は上邽に進軍し要地を分守しつつ昼夜前進、鄧艾・胡奮・王祕も到着し三軍に分かれ隴西に進んだ。艾らは陇右の敗勢を理由に険を頼み自保し形勢を待つべきと進言したが、泰は姜維の兵は正野戦を求めており、王経が高塁で鋭気を挫くべきだったのに戦って敗れたこと、維が乗勝すれば東の関隴を脅かし危険が増すこと、逆に維は乗勝の兵で堅城を攻めており疲弊していること、糧道が続かない今こそ速進して破るべき「疾雷不及掩耳」の好機であることを説き、進軍を主張した。

陳泰――狄道解囲と栄達

  • 泰は高城嶺を越えて夜に狄道東南の高山に潜行し烽火を挙げ鼓角を鳴らした。城中の将士は救援の到来に奮い立ち、維は不意を突かれ動揺した。維は伏兵を三日にわたり試みたが泰は南道から迂回してこれを避けた(裴松之はこの経緯の記述の矛盾を指摘する)。定軍が南から奇襲すると維は交戦後に退き、涼州軍が金城南の沃干阪に至り泰と経が退路を挟撃する計を進めたため維は遁走、狄道城の将士は救出された。王経は「兵糧は旬を保てず、機に応じられなければ州を失うところだった」と嘆じ、泰は将士を慰労し守備を立て直し上邽に還屯した。
  • 初め泰は経の囲まれた報を聞き州軍の士気と保城により維に容易に落とせぬと見て速やかな進軍を上表したが、衆議は経の敗走で城を保てないとし、凉州の道を断たれ四郡の民夷を維に奪われることを恐れ大兵の集結を待つべきとした。大将軍司馬文王は「かつて諸葛亮もこの志を抱いたが果たせなかった、事は大きく謀は遠く維の任ではない、城は容易に落ちず糧の不足こそ急務、征西の速救は上策」と述べた。泰は一方の事変で天下を騒がせぬよう簡素な上奏を旨とし駅書も六百里を超えなかった。司馬文王は荀顗に「玄伯は沈勇で決断力があり方伯の重責を担い陥落寸前の城を救いながら援兵を求めず簡素な上奏で済ませた、必ず賊を破る自信あってのこと、都督大将とはこうあるべきだ」と語った。

陳泰――晩年

  • のち尚書右仆射に召され選挙を典り侍中光禄大夫を加えられた。呉の大将孫峻が淮泗に出ると鎮軍将軍・仮節都督淮北諸軍事とされ徐州監軍以下が節度を受けた。峻が退くと左仆射に転じた。諸葛誕が寿春で反すると司馬文王は六軍を丘頭に進め泰は行台を総署した。司馬景王・文王はいずれも泰と親友で、沛国の武陔も泰と親しかった。文王が陔に「玄伯は父の司空(陳羣)と比べどうか」と問うと、陔は「通雅博暢で天下の声教を己の任とする点は及ばぬが、明統簡至で立功立事の点では勝る」と答えた。前後の功で邑二千六百を増し子弟一人を亭侯、二人を関内侯に賜った。
  • 景元元年薨じ司空を追贈され穆侯と諡された。子の恂が嗣いだが嗣なく薨じ、弟の温が嗣封した。咸熙中、五等の爵制が開かれると泰の前朝での勲功により温は慎子に改封された。