馬騰・馬超への従軍
- 龐徳、字は令明。南安狟道の人(狟の音は桓)。若くして郡吏・州従事となる。初平中、馬騰に従い反羌・叛氐を撃ち数々の功をあげ校尉に昇進。建安中、太祖が袁譚・尚を黎陽で討った際、譚は郭援・高幹らに河東を略取させ、太祖は鍾繇に関中諸将を率いさせこれを討たせた。徳は騰の子超に従い平陽で援・幹を拒み軍の先鋒となり大破、自ら援の首を斬った(魏略によれば徳は一級を斬ったがそれが援と知らなかった、戦後皆が援の死を語るが首が見つからず、援は鍾繇の甥であったため徳が後に鞬中から首を取り出すと繇は見て哭いたという。徳が詫びると繇は「援は甥でも国賊、なぜ詫びるのか」と答えた)。中郎将・都亭侯となる。
- 後に張白騎が弘農で叛くと徳は再び騰に従いこれを討ち両殽の間で破った。戦うたびに常に陣を陥し敵を退け騰の軍随一の勇であった。騰が衛尉に召されると徳は超に属したまま留まった。太祖が渭南で超を破ると徳は超に従い漢陽に亡命し冀城を保った。その後さらに超に従い漢中の張魯のもとへ奔った。太祖が漢中を平定すると徳も衆と共に降った。太祖はその驍勇を聞き立義将軍・関門亭侯(邑三百戸)を拝させた。
樊城の戦いと最期
- 侯音・衛開らが宛で叛くと徳は所領を率い曹仁と共にこれを攻略し音・開を斬り南の樊に屯した。関羽討伐にあたり、樊下の諸将は徳の兄が漢中にいることを疑ったが(魏略によれば徳の従兄柔は蜀にいた)、徳は常に「私は国恩を受けた身、義として死を尽くすのみ、私自ら羽を討ちたい、今年羽を殺さねば羽が私を殺すだろう」と述べていた。徳は羽と交戦し矢で羽の額を射た。徳は常に白馬に乗っており羽軍はこれを「白馬将軍」と呼び恐れた。仁は徳を樊北十里に屯させたが霖雨十余日で漢水が氾濫し樊下の平地は五六丈も水没、徳は諸将と共に堤に避難。羽は船で攻め堤上を四方から射た。徳は甲を着け弓を持ち矢を外さなかった。将軍董衡・部曲将董超らが降ろうとすると徳はこれを斬った。平旦から日過ぎまで力戦し羽の攻めがますます急となり矢が尽きると短兵で接戦、徳は督将成何に「良将は死を恐れて安易に逃れず、烈士は節を汚して生を求めない、今日が我が死ぬ日だ」と述べ、ますます奮戦したが水はさらに増し吏士は皆降った。徳は麾下の将一人・五伯二人と共に弓を彎き矢を持ち小船で仁の営へ戻ろうとしたが、水が盛んで船が覆り弓矢を失い、独り船に抱きついたところを羽に捕らえられ、立ったまま跪かなかった。羽が「卿の兄は漢中にいる、卿を将にしたい、なぜ早く降らぬか」と言うと、徳は「小僧、何が降るものか。魏王は甲兵百万、威は天下を振るう。お前の劉備は庸才に過ぎぬ、どうして敵し得よう。我は寧ろ国家の鬼となる、賊の将にはならぬ」と罵り、羽に殺された。太祖はこれを聞き悲しみ涙を流し、二子を列侯に封じた。
追諡
- 文帝の魏王即位で徳の墓に使者を遣わし諡を賜った。策には「昔、先軫は元を喪い、王蠋は脰を絶ち、身を隕して節に徇った、前代はこれを美とした。惟れ侯(徳)は果毅を昭かにし難に蹈んで名を成した、その誉れは当時に溢れ義は昔にも高い、寡人はこれを愍み壮侯と諡す」とあった。また子の会ら四人に関内侯(各邑百戸)を賜った。会は勇烈で父の風があり中尉将軍・列侯に至った。王隠『蜀記』によれば、鍾会が蜀を平定した際、前後の鼓吹をもって徳の屍を迎え鄴に葬り、棺の中の身首は生けるがごとくであったというが、裴松之は徳が樊城で死し文帝即位後もその墓に使者を遣わしたことから見て屍が蜀にあったはずはなく、これは王隠の虚説であると注記している。