三國志卷十八 二李臧文呂許典二龐閻傳第十八 李典

出自と一族

  • 李典、字は曼成。山陽鉅野の人。従父の李乾は豪気があり数千家の食客を乗氏に集めた。初平年間、衆を率いて太祖に従い、黄巾を寿張で破り、袁術討伐・徐州征討にも従軍。呂布の乱の際、太祖は乾を乗氏に帰らせ諸県を慰撫させたが、布の別駕薛蘭・治中李封が乾を叛乱に誘い、応じなかったため殺された。太祖は乾の子李整に兵を率いさせ諸将と共に薛蘭・李封を撃破、兗州諸県平定に功をあげ青州刺史に昇進。整が没すると典は潁陰令から中郎将となり整の軍を継いだ(魏書によれば典は若くして学を好み兵事を楽しまず、師について春秋左氏伝を学び群書を博覧、太祖はこれを善しとし民政で試させたという)。離狐太守に遷った。

官渡から合肥まで

  • 太祖と袁紹の官渡対峙の際、典は宗族・部曲を率いて穀帛を輸送し軍を支えた。紹敗北後、裨将軍となり安民に屯した。太祖の譚・尚討伐(黎陽)では程昱らと共に船で軍糧を輸送。尚配下の魏郡太守高蕃が河上に屯し水路を断とうとした際、太祖は「船が通れなければ陸路に移れ」と命じたが、典は諸将と協議し「蕃の軍は少なく水を頼みに油断がある、撃てば必ず勝てる。軍は内から統制されずとも国家の利になるなら専断すべき」と主張、程昱も同意し北へ渡河して蕃を破り水路を回復した。
  • 劉表配下の劉備が北侵し葉に至った際、典は夏侯惇に従いこれを拒んだ。備が屯営を焼いて退くと惇は追撃しようとしたが、典は「敵が理由なく退くのは伏兵の疑いがある、南道は狭く草木が深いので追うべきでない」と諫めた。惇は聞かず于禁と共に追撃、典は留守した。案の定惇らは伏兵に遭い苦戦、典が救援に向かうと備は退いた。
  • 鄴包囲戦に従軍し鄴平定後、楽進と共に高幹を壺関で、管承を長広で撃破。捕虜将軍・都亭侯となる。典の宗族部曲三千余家は乗氏に住んでいたが、自ら魏郡への移住を願い出た。太祖が「耿純を慕うのか」と笑うと、典は「私は功微くして爵寵が過分、まさに一族を挙げて力を尽くすべき、加えて征伐がまだ止まぬ今、都に近い地を実らせ四方を制すべきと考えたまで、耿純を慕ったわけではない」と答え、一族一万三千余口を鄴に移した。太祖はこれを嘉し破虜将軍に昇進。張遼・楽進と合肥に屯していた際、孫権の大軍に包囲され、遼が出撃しようとしたが進・典・遼は互いに不仲であった。遼が典の不服従を懸念すると、典は「これは国家の大事、私怨で公義を忘れられようか」と述べ、遼と共に権を撃破した。増邑百戸、あわせて三百戸。

人柄と没後

  • 典は学問を好み儒雅を重んじ、諸将と功を争わなかった。賢士大夫を敬い謙虚で軍中では長者と称された。三十六歳で薨じ、子の禎が嗣いだ。文帝践阼の際、合肥の功を追念し禎の邑を百戸増し、典の一子に関内侯・邑百戸を賜り、典を愍侯と諡した。