三國志卷十七 張樂于張徐傳第十七 徐晃

楊奉配下から太祖への帰順

  • 徐晃、字は公明。河東楊の人。郡吏として車騎将軍楊奉に従い功を挙げ騎都尉。李傕・郭汜の乱の際、奉に天子を洛陽へ還すよう説き従わせ都亭侯となった。韓暹・董承の争いを機に奉に太祖への帰順を説くも奉は一旦従いつつ後悔し、太祖が奉を梁で討つと晃は太祖に帰した。

曹操軍での転戦

  • 卷原武の賊討伐、呂布討伐(趙庶・李鄒らの降)、眭固討伐、劉備討伐、顔良討伐(白馬・延津・文醜討伐)で偏将軍。故市での軍需輸送車の攻撃も功が最多で都亭侯。易陽の韓範降伏工作では説得で降させ、「一城の滅を示せば他城が死守する、降を示すべき」と献策し容れられた。毛城討伐、袁譚討伐、原討伐、蹋頓討伐、荊州征討(中廬・臨沮・宜城討伐)、関羽・周瑜討伐、太原の商曜討伐にも従軍。
  • 韓遂・馬超反乱に際し汾陰に屯し河東を撫し、潼関渡河を渋る太祖に「賊が蒲坂を守らぬのは無謀の証、精兵で渡河し裏を断つべき」と献策、梁興の夜襲を撃退し渡河を成功させた。隃麋・汧の氐平定、鄜・夏陽の残賊討伐(梁興斬首)、張魯征討にも従い、独攻・仇夷諸山氐を降した。

樊城救援

  • 夏侯淵と陽平で劉備を防いだ際、馬鳴閣道を断とうとした陳式らを撃破、太祖は「この閣道は漢中の要衝、将軍の功は善の善なるもの」と称え節を仮した。于禁の水没後、関羽が樊の曹仁と襄陽の呂常を包囲する中、晃は新兵を率い偃城で計略(截道と見せかけ賊を退却させる)を用い、四冢の攻撃で関羽の陣を突き崩し、賊圍への正面突破に成功、太祖は「用兵三十余年、これほど敵の囲みを直接突破した例を聞いたことがない」と最大級の賛辞を送った。摩陂での凱旋では太祖自ら七里出迎え、整然と乱れぬ晃の軍を見て「周亜夫の風あり」と評した。

晩年

  • 文帝即位で右将軍・逯郷侯、践阼で楊侯。夏侯尚と劉備を上庸で破り陽平侯。明帝即位で諸葛瑾を襄陽で拒んだ。病篤くなり時服での埋葬を遺命した。倹約質朴を旨とし常に遠斥候を怠らず「先為不可勝、然後戦」を実践、私的な交わりを広げなかった。太和元年(227年)薨じ壮侯と諡され子蓋が嗣ぎ、孫霸も嗣いだ。明帝は晃の子孫二人を列侯に封じた。

朱靈――張遼への帰属

  • 清河の朱霊はもと袁紹の将で、太祖の陶謙征討に紹の命で三営を率い助勢し戦功があった。他の将は紹のもとへ帰ったが、霊は「これほどの真の明主に会うことは他にない」と留まり、部下も慕って留まった。以後太祖軍で活躍し名は徐晃らに次ぎ、後将軍・高唐侯に至った。
  • 『九州春秋』は霊が清河の季雍を攻めた際、公孫瓚に人質にされた霊の母弟の呼びかけにも「丈夫たる者、身を人に捧げた以上家を顧みぬ」と力戦し季雍を捕えたが霊の家族は皆死んだ逸話を伝える。『魏書』は太祖が新兵五千の統率を霊に任せた際の訓戒と、中郎将程昂の反乱を斬って鎮めた顛末、太祖の慰労の手書、文帝が霊を鄃侯とした後「富貴不帰故郷は夜行衣繍のようだ、故郷への封を望むなら申せ」との詔に霊が「高唐こそ本望」と応じ改封された経緯、威侯と諡されたことを伝える。

史論

  • 評に曰く、太祖はこの武功を建てるにあたり、当代の良将としてまず五子(張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃)を挙げるべきである。于禁はもっとも毅重と称されたが最後を全うできなかった。張郃は巧変で称され、楽進は驍果で名を顕したが、その行事を鑑みるに評判ほどではなかった。あるいは記録に遺漏があり、張遼・徐晃ほど詳細には伝わっていないのだろう。