并州の平定
- 梁習、字は子虞。陳郡柘の人、郡の綱紀を務めた。太祖の司空就任で漳長に辟され累進し、并州刺史(別部司馬領)として高幹の荒乱の後を承け、胡狄が界にあり張雄が跋扈し吏民が逃亡する状況を、豪右を招諭して幕府に送り、丁強を義従に編成し、大軍出征の際は勇力の者を徴し、従わぬ者は討伐して数万口を鄴へ移した。単于も恭順し編戸同様に統治され、辺境は清まり農桑が勧められた。
- 太祖に関内侯を賜り正式な刺史となった。建安十八年、州が冀州に編入されると議郎・西部都督従事となった。屯田都尉を置き道次で耕作させ牛馬の費を賄った。『魏略』は鮮卑の大人育延との互市を巡る危機(習が捕縛した胡人一名を巡り包囲された)を機知で乗り切った逸話と、烏丸王魯昔が愛妻恋しさに叛いた事件を張景の追討で解決した経緯を伝える。文帝践阼で再び并州刺史となり申門亭侯に進封、政治は常に天下最であった。太和二年、大司農に徴されたが清貧を保ち続け、明帝はこれを異とし厚く礼遇した。四年薨じ、子施が嗣いだ。
王思の義
- 済陰の王思は習と共に西曹令史であった。思が太祖の指に背いた際、習が代わって対応し捕縛されたが、思は自ら罪を陳べ死を覚悟した。太祖は「我が軍中に二義士あり」と嘆じた。裴松之は同僚に過ぎない習が身代わりとなったことを、必ずしも先哲の義に適うとは言えないと論評する。
- 後に思も豫州刺史となったが苛碎な吏で知られた。『魏略苛吏伝』は思・薛悌・郤嘉の三吏の風格を比較し、文帝が「薛悌は駮吏、王思・郤嘉は純吏」と評した詔を伝える。思の刻薄な性格を示す逸話(病父の仮願いを疑って拒み父が翌日死んだ話、蝿を逐って筆を折った話)や、同時代の苛吏(施畏・倪顗・胡業・劉類)の悪政(劉類が弘農太守として吏民を苛酷に扱った様々な逸話)を詳しく伝える。