三國志卷十四 程郭董劉蔣劉傳第十四 董昭

董昭(字は公仁、済陰定陶の人)は献帝の許都遷都、魏公・魏王号の推戴など、後漢から魏への移行を陰で支えた策謀家。関羽包囲策や江陵撤退の進言など軍略にも通じ、文帝・明帝期を通じて重用され、太和年間に司徒となり八十一歳で没した。

年表(2件)
  • 建安元年河東に赴き楊奉を太祖名義の書で懐柔し、献帝の許への遷都を実現させた
  • 太和年間司徒に転じ、浮薄の風潮を諫める上疏で諸葛誕・鄧颺らを免職させた

出自と鉅鹿平定

  • 董昭、字は公仁。済陰定陶の人。孝廉に挙げられ癭陶長・柏人令を経て袁紹の参軍事となった。界橋の戦いで鉅鹿の豪族らが公孫瓚に傾こうとした際、昭は偽の檄文で首謀者を誅し郡を鎮めた。魏郡太守として間諜を用い賊を破った。

張楊・献帝への周旋

  • 弟訪が張邈軍にあった縁で袁紹に疑われ、河内の張楊のもとに身を寄せ、楊を説いて太祖と結ばせ、太祖のために李傕・郭汜らへの書簡を代筆した。天子が安邑にあった頃から議郎として仕えた。
  • 建安元年、太祖の使者として河東に赴き、韓暹・楊奉・董承・張楊の対立の中、兵力最大の楊奉に太祖名義の書を送って懐柔し、鎮東将軍・費亭侯襲爵を実現させた。太祖の洛陽朝見に際しては許への遷都を進言、楊奉の懐柔策も併せて説き、成功させた(符節令に遷)。

許都遷都後の活躍

  • 張楊死後は単身で城を説き降し冀州牧となった。劉備の処遇を危惧しつつも太祖の意向に従い、袁紹配下顔良討伐、鄴攻囲にも従軍。袁紹の同族春卿への説得書(孝・忠・智の道理を説き魏への帰順を勧める)も昭の作である。
  • 鄴平定後は諫議大夫、烏丸征討の軍糧輸送のため平虜・泉州の二渠開削を献策し実現、千秋亭侯・司空軍祭酒となった。

封爵議と関羽包囲策

  • 太祖に五等爵制の復活を進言する長文の議論を行い(自古の人臣で今日の功績に及ぶ者なしとし、基盤を固めるべきと説く)、『献帝春秋』は昭が荀彧に丞相の魏公進爵・九錫を書で説いた経緯も伝える。後に太祖は魏公・魏王号を受け、いずれも昭の創案による。
  • 関羽が樊で曹仁を包囲した際、孫権の密使の提案(背後を突くが漏らすなの依頼)に対し、群臣は秘匿を主張したが昭は「表向き秘し内実は漏らすべき、羽が動揺すれば囲みは解け、両賊を相争わせられる」と説き太祖はこれに従い、果たして羽は動揺し敗れた。

文帝・明帝期の献策

  • 文帝の即位で将作大匠、践阼で大鴻臚・右郷侯。侍中に遷り、曹休の長江渡渉を巡る文帝の憂慮に対し「臧霸らは既に富貴、危険を冒して功を求める気はない、休の渡江は単独では起こらない」と説き的中させた。
  • 夏侯尚の江陵攻めで渚中屯営・浮橋の危険性を上疏し(三つの兵家の忌を犯していると論じ)、帝はこれを容れ撤退を命じ、直後の増水で危機を免れた。帝は「張良・陳平にも劣らぬ見識」と称賛した。太常・光禄大夫・給事中・太僕を歴任、明帝即位で楽平侯に進封。

末流の弊を諫める上疏と最期

  • 太和年間、司徒事を行い、後に正式に司徒となる。虚偽・浮薄の風潮(学問より交遊、清脩より趨勢遊利を重んじる風潮、党派化した毀誉、奴客を使った内通など)を厳しく批判する上疏を行い、帝はこれを容れ諸葛誕・鄧颺らを免職とした。八十一歳で薨じ定侯と諡された。子冑が嗣ぎ郡守・九卿を歴任した。