出自と太祖への出仕
- 郭嘉、字は奉孝。潁川陽翟の人。『傅子』によれば若くして遠謀を持ち、乱世を見越して交友を厳選し当初は評価されなかった。二十七歳で司徒府に辟され、初め袁紹に見えるも「多端寡要、好謀無決」と見限り離れた。
- 潁川の戲志才の死後、荀彧の推薦で嘉が召され太祖と天下を論じ、太祖は「我の大業を成す者はこの人だ」と喜び司空軍祭酒とした。太祖が袁紹討伐の可否を問うと、嘉は「紹に十敗、公に十勝あり」として道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武の十項目にわたり優劣を論じ(十勝十敗論)、太祖を大いに喜ばせた。さらに「紹が公孫瓚を攻めている隙に呂布を取るべき」と献策した。
呂布討伐から劉備評
- 呂布討伐で太祖が撤退を考えた際、嘉は急攻を説いて呂布を捕えさせた。『魏書』『傅子』は劉備の処遇を巡る嘉の議論を伝え、「備を害せば賢を害する名を得て智士は離反する、除くべきではないが警戒は要る」と説いた一方、『傅子』は逆に「早く手を打つべき」と献策したと伝え、裴松之は両書の記述が正反対であると注する。
孫策の死予言と河北平定
- 孫策が北襲を企てた際、嘉は「策は軽率で刺客一人に殺されよう」と予言し、果たして許貢の食客に殺された。裴松之はこの予言を「大まかに当たった偶然」と評しつつ嘉の明察を認める。
- 劉備討伐や袁紹との対峙でも進言が的中し、袁紹死後の譚・尚討伐では「兄弟の内紛を待って一挙に定めるべき」と献策し的中、冀州平定に貢献し洧陽亭侯となった。烏丸征討でも「劉表は座談の客に過ぎず備えは不要」「兵は神速を貴ぶ」と説き、白狼山の奇襲を成功させた。
薨去と評価
- 三十八歳で柳城から帰る途上発病し薨じた。太祖は哀しみ「後事を託そうとしたのに」と嘆き、十一年の功を称え邑を増した。『魏書』所載の表文はその功績(呂布捕縛・眭固討伐・袁譚討伐・烏丸平定など)を詳述する。貞侯と諡され、子奕が嗣いだ。
- 後年赤壁からの帰途、太祖は「郭奉孝がいれば我をここまで至らせなかった」と嘆いた。『傅子』は太祖が荀彧への書で嘉への痛惜を繰り返し述べた文を伝える。