出自と東阿の守り
- 程昱、字は仲徳。東郡東阿の人。長身(八尺三寸)で立派な髭を持つ。黄巾の乱で県丞王度が呼応し倉庫を焼くと、県令は逃げ吏民は東の渠丘山へ逃げた。昱は薛房ら大姓を説き偽計(幟を掲げ「賊已至」と叫ばせる)で吏民を城に呼び戻し、共に城を守り王度らを撃退、東阿を守り抜いた。
兗州争乱での功
- 劉岱の招きには応じなかったが、袁紹・公孫瓚の抗争を巡る岱の進退に対し「袁紹を頼るべきで公孫瓚を頼るのは溺れる子を越人に救わせるようなもの」と説き岱を従わせた。
- 劉岱死後、太祖が兗州を治めると昱を召し、壽張令とした。太祖の徐州征討中、昱・荀彧は鄄城を守った。張邈らが呂布を迎えて叛くと兗州は動揺したが、鄄城・范・東阿の三城は動かなかった。荀彧の依頼で昱は范・東阿を説得に赴き、范では靳允を「陳宮に母弟妻子を握られても忠を守れ」と説いて氾嶷を討たせ、東阿では棗祗が既に固守していた。徐衆は允の判断を「至親を先に救うべきだった」と批判している。倉亭津も別動隊で断ち、三城を全うした功で太祖は昱を東平相とし范に屯させた。『魏書』所載の昱の名の由来(もと立、太祖が「日」を加え昱と改名)の逸話も付す。
兗州離反時の献策
- 太祖が呂布と濮陽で戦い不利となり袁紹と結ぼうとした際、昱は「袁紹は天下併呑の志があっても智謀が及ばぬ、兗州にはなお三城と万余の兵がある、将軍の神武があれば覇業は成る」と諫めて翻意させた。『魏略』は昱が田横の故事を引いて太祖を奮起させた逸話を伝える。
劉備評価と鄄城の守り
- 天子が許に都すると尚書、のち東中郎将・済陰太守・都督兗州事となった。劉備が徐州を失い帰順した際、昱は殺すよう勧めたが太祖は聞かず、後に備を徐州へ遣って袁術を要撃させたことを昱・郭嘉は共に危惧し、果たして備は太祖に叛いた。
- 袁紹が黎陽に迫った際、昱は鄄城の兵七百のまま増兵を固辞し「紹は寡兵と侮って攻めまい、増兵すれば逆に攻められる」と説き的中させた。太祖は「程昱の胆は賁育に勝る」と評した。山沢の亡命者を集めて数千の精兵を得、黎陽で太祖と合流し袁譚・袁尚を破り、奮武将軍・安国亭侯となった。
孫権評と晩年
- 太祖の荊州出兵で劉備が呉に走った際、昱は「孫権は劉備の名声と関羽・張飛の武勇を頼りに兵を貸すはずで殺しはしない」と予測し的中、太祖は昱に兗州の敗戦時の献策を思い出して謝した。昱は功成り名を全うすべしと兵権を返上し門を閉ざした。『魏書』は文帝期、田銀・蘇伯の乱の降者処断を巡り昱が文帝に「専断は緊急時のみ許される、賈信の手にある以上急を要さない」と進言し的中させた逸話を伝える。
- 昱は剛戻な性格で人と衝突が多く、謀反を誣告された際も太祖の待遇はかえって厚くなった。魏国建国後は衛尉となったが邢貞との争いで免官、文帝践阼で復し安郷侯に進封、公への昇進を目前に八十歳で薨じ、車騎将軍を追贈され肅侯と諡された。『世語』は太祖の食糧難の際に昱が本県から糧を集め人脯を混ぜたため朝望を失い公位に至らなかったと伝える。子武、孫克、曾孫良と嗣いだ。
孫曉――校事廃止の上疏
- 程昱伝に付す孫曉、嘉平中に黄門侍郎となる。『世語』によれば字は季明、通識があった。校事官の専横に対し上疏し、周礼・春秋の官分職の理念を引きつつ、武帝(曹操)が草創期の便法として置いた校事が本来の権宜であったのに以後も踏襲され、上は宮廟を伺い下は諸司を統べて恣意的な運用がなされ、尹模のような姦悪が横行するに至った実態を批判し、既存の公卿・侍中尚書・司隷校尉・御史中丞で十分職掌が果たせるとして校事の廃止を訴えた。
- 結果、校事官は廃止された。曉は汝南太守に遷り四十余歳で薨じた。曉別伝は著作の多くが散逸し現存は十分の一に満たないと伝える。