三國志卷十三 鍾繇華歆王朗傳第十三 王朗
王朗(字は景興、東海の人、?–太和二年)は経学に通じた名臣で、会稽太守を経て曹操に仕え、御史大夫・司空を歴任した。寛政と倹約を説く上疏で知られる。子の王肅も学者・重臣として知られ、多くの経書注釈を著し魏・晋の礼制論議に大きく関わった。
若年期から会稽太守まで
- 王朗、字は景興。東海郡の人。経学に通じて郎中を拝し菑丘長を除せられた。師の太尉楊賜が薨じると官を棄てて服喪。孝廉に挙げられ公府に辟されたが応じなかった。徐州刺史陶謙は朗を茂才に察挙した。
- 献帝が長安にあり関東に兵が起こった当時、朗は謙の治中として別駕趙昱らと「春秋の義は諸侯の勤王を重んじる、天子に使者を送るべき」と謙を説き、謙は昱に上奏させた。天子はその意を嘉して謙を安東将軍に、昱を広陵太守に、朗を会稽太守に任じた。
- 郡にあること四年、恵愛が民に及んだ。孫策が江を渡って地を略した際、功曹虞翻は防戦不可能として避けるよう勧めたが、朗は漢の吏として城邑を保つべきと考え挙兵して策と戦い敗れ、海を渡って東冶に至るも策の追撃を受け大破された。朗は策のもとへ出頭し、策は朗を儒雅な人物として詰責したが害さなかった。
曹操への出仕
- 太祖が上表して朗を召したが、朗は曲阿から江海を転々とし数年を経て至った。建安三年、太祖が改めて朗を召すと孫策はこれを送り出した。太祖が「孫策は何によってここまでの勢力を得たか」と問うと、朗は「策は勇冠一世、大志を有し、張昭が北面してこれを相け、周瑜が江淮の傑としてその将となった、謀って成すところ小さからず、ついには天下の大賊となろう、単なる盗賊ではない」と答えた。諫議大夫を拝し司空軍事に参与した。
- 魏国建国の初め、軍祭酒として魏郡太守を領し、少府・奉常・大理に遷った。務めて寛恕を旨とし罪の疑わしきは軽きに従った。鍾繇は明察をもって法を当てることで知られ、両者ともに治獄で称された。太祖が孫権の称藩・貢物差し出しについて朗に諮ると、朗は「孫権の従順は言辞に現れ功に見える、三江五湖は魏の沼となり呉越は国民となろう、荊門は自ずから開き巴蜀も席巻の形勢は既に成っている」と答えた。
文帝期の上疏
- 文帝の王位即位に伴い御史大夫に遷り安陵亭侯に封ぜられた。民を育て刑を省くべしとの上疏を奉り、「兵起こって三十余年、先王が寇賊を除き孤弱を扶育した恩により華夏に再び綱紀が備わった、いま遠方の寇はなお服さぬが、賦役を軽くし良宰を得れば阡陌は整い民は殷賑を極めるだろう、獄を治め冤罪をなくし、老幼を養い婚姻を時に、出産・育児・徴役の負担を緩めれば十年後には笄礼を迎える娘が巷に満ち二十年後には壮兵が野に満ちる」と説いた。
- 践阼に及び司空と改められ楽平郷侯に進封された。『魏名臣奏』所載の節省の奏では、前漢の祭祀・宮室・軍馬・官吏などの奢侈な旧制を列挙し、明堂・霊台・辟雍・太学などの整備は年豊かになってから漸進的に行うべきこと、虎賁羽林など常備の兵も実戦に備え簡練すべきことなどを説いた。
- 帝が頻繁に狩猟に出て夜更けに帰宮することがあったため、朗は警蹕の常法を守るよう上疏し、帝は「魏絳・司馬相如の諫めには及ばぬが、夜還りの戒めは既に有司に施行を命じた」と答えた。
- 太祖の時代、大理の主簿だった趙郡の張登が黒山賊に囲まれた郡を救うために県長王儁と共に戦い儁の命を救い、また督郵に冤罪を着せられた守長夏逸を助けた功があったが、太祖の代には未だ抜擢されず、黄初初めに朗は太尉鍾繇と連名で登の功労を上表し、詔により登は太官令となった。
対蜀・対呉政策への提言
- 建安末、孫権が初めて称藩する一方で劉備と交戦していた際、詔で「呉と共に蜀を討つべきか」を議したところ、朗は「天子の軍は華・岱より重く、みだりに動かすべきではない、権が自ら蜀と持久戦を戦い勢いが定まってから持重の将を選び相時して動けば一挙に事足りる、いま呉軍は未だ動かず、また雨水が盛んで行軍に適さない」と述べ、帝はこれを容れた。
- 黄初中、公卿に独行の君子を挙げさせた際、朗は光禄大夫楊彪を推挙し自ら病と称して位を譲ろうとしたが、帝は彪のために吏卒を置き三公に次ぐ位を与えつつ朗の辞退を許さなかった。
- 孫権が子の登を人質に送ると言いながら実行しなかった際、車駕は許昌に移り屯田を大興し東征しようとしていた。朗は「南越や康居の故事を引き、子の入侍が遅れたからといって直ちに興師すれば、来着した場合の利は小さく、遅延した場合の弊害は大きい、外は威を示し内は耕稼を広げて力を蓄えるべき」と諫めたが、帝は既に軍を編成しており、権の子が至らぬまま車駕は江に臨んで還った。
明帝期の上疏と著述
- 明帝が即位すると蘭陵侯に進封され邑五百戸を増して前と合わせ千二百戸となった。鄴に赴き文昭皇后陵を視察した際に民の不足を見て、時に宮室を営築中だったため、大禹・句践・漢の文景の倹約による大成の故事を引き徭役の軽減を上疏した。司徒に転じた。
- しばしば皇子を失い後宮の懐妊が少ないことを憂え、周の文王・武王の故事を引いて子孫繁栄を願う心得と、幼児を厚着させすぎない養育の注意を上疏し、帝はこれを深く嘉納した。
- 朗は『易』『春秋』『孝経』『周官』の伝、奏議論記を著し、いずれも世に伝わった。太和二年薨じ成侯と諡された。子の粛が嗣いだ。文帝が朗の戸邑を分けて一子を列侯に封じようとした際、朗は兄の子の詳を封じるよう乞うた。
王肅――若年期と曹真征蜀への諫言
- 王肅、字は子雍。十八歳で宋忠に『太玄』を学び、自ら新たな注解を著した。黄初中、散騎黄門侍郎となる。太和三年、散騎常侍を拝命。四年、大司馬曹真の蜀征討に際し、肅は「千里の輸糧は士に飢色あり、まして険阻な地を切り開いて進むのは労苦百倍、加えて霖雨で山坂は滑り軍は進退窮まる、これは行軍の大忌である」と上疏し、これにより征討は取りやめとなった。
- また旧礼に従い大臣の喪に発哀し宗廟に果物を供えるべきことを上奏し、いずれも施行された。さらに政の根本を論じた上疏では「無用の官位・不急の俸禄を除き、官には必ず職を、職には必ず事を、事には必ず禄を対応させるべき」と説き、唐虞から漢初までの官制の沿革を引いて五日に一度の視朝の儀を復活させるべきと論じた。
王肅――山陽公謚号論と経学
- 青龍中、山陽公(前漢の帝、後漢の献帝)が薨じた。肅は「唐が虞に、虞が夏に禅譲した際も三年の喪を終えてから天子の位に即いた、山陽公は天命に従い魏に禅譲した、その死に際しては王者に准じた礼を用いるべき、皇帝の号は帝より軽い称ではないのでこれを配すべき」と上疏したが、明帝はこれに従わず孝献皇帝と追諡した。
- 肅は常侍として秘書監を領し崇文観祭酒を兼ねた。景初年間、宮室が盛んに興され民が農事を失い、刑殺が仓卒に行われていた。肅は上疏し「今作事に従う者三四万人、九龍殿・六宮・顕陽殿の工事はほぼ完成に近い、丁壮を選び万人を留めて一年交代とすれば士は喜んで働く、一歳三百六十万人の労力があれば決して少なくない、信を民に示すことは国家の大宝、晋文公が原を攻めた際に信を示して一戦で覇を成した例に倣うべき」と諫め、また刑の執行が仓卒に見えることのないよう明らかに罪を宣告してから処すべきと説いた(張釈之・周公の故事を引く)。さらに無用の鳥獣の飼育費も省くべきと述べた。
王肅――帝との問答と晩年
- 帝が「桓帝の代、白馬令李雲が『帝とは諦(つまびらか)の意、帝が諦らかでない』と上書し死罪となったが妥当か」と問うと、肅は「言葉は逆順を失ったが意図は尽忠にあった、帝王の威は雷霆に勝り一匹夫を殺すも蟻を殺すに等しい、寛恕して切言を受け入れる度量を示すべきで、殺すのは適切でなかった」と答えた。また帝が「司馬遷は刑を受けた恨みから『史記』で孝武帝を貶めた」と問うと、肅は「司馬遷の記事は虚美せず悪を隠さず、劉向・揚雄も良史の才と称した実録である、隠切があったのはむしろ孝武帝の側で史遷の側ではない」と弁護した。
- 正始元年、広平太守として出仕、公事で召還され議郎を拝し、侍中を経て太常に遷った。大将軍曹爽が専権し何晏・鄧颺らを用いた際、肅は太尉蒋済・司農桓範との時政談義で「この輩は弘恭・石顕の類だ」と正色して評し、爽はこれを聞いて何晏らに「公卿は既に諸君を前世の悪人になぞらえている、慎むべきだ」と戒めた。宗廟の事で免官となり、後に光禄勲となった。武庫の屋根に魚が集まる怪異があった際、肅は「魚が淵を離れ屋に亢るのは辺将が甲を棄てる兆しか」と述べ、後に果たして東関の敗戦があった。河南尹に転じた。
- 嘉平六年、持節兼太常として法駕を奉じ高貴郷公を元城に迎えた。この年白気が天を経った異変について大将軍司馬景王(司馬師)が問うと、肅は「これは蚩尤の旗、東南に乱が起こる兆しか」と答えた。翌年、鎮東将軍毌丘倹・揚州刺史文欽が反すると、景王が安国寧主の術を問い、肅は「かつて関羽が荊州の兵を率い威を振るったが、孫権が将士の家族を奪うと軍は瓦解した、淮南の将士の父母妻子は内地にある、急ぎ守りを固め前進を許さねば必ず関羽と同じ瓦解が起こる」と説き、景王はこれに従い倹・欽を破った。
- 中領軍に遷り散騎常侍を加え邑三百戸を増して前と合わせ二千二百戸となった。甘露元年薨じ、門生で喪服をつけた者が百を数えた。衛将軍を追贈され景侯と諡された。子の惲が嗣ぎ、惲が薨じ子がなく国は絶えたが、景元四年に肅の子恂が蘭陵侯に封ぜられ、咸熙中に開建五等の制で恂は氶子と改封された。肅の娘は司馬文王(司馬昭)に嫁ぎ文明皇后となり、晋の武帝と斉献王攸を生んだ。
王肅――撰述と経学者たち
- 肅は賈逵・馬融の学を好み鄭玄の説を採らず、異同を折衷して『尚書』『詩』『論語』・三礼・『左氏解』を著し、父朗の『易伝』を撰定して共に学官に列した。朝廷の典制・郊祀・宗廟・喪紀・軽重を論駁した文は百余篇に及んだ。
- 当時、楽安の孫叔然(孫炎、鄭玄門下で東州の大儒と称された)は召されて秘書監となるも就かず、肅の『聖証論』(鄭玄を批判する書)に反駁を加え、『周易』『春秋例』『毛詩』『礼記』『春秋』三伝・『国語』『爾雅』の諸注を著した。
- 魏初以来の徴士では、燉煌の周生烈、明帝時代の大司農弘農の董遇らが経伝の注釈を伝えた。董遇、字は季直。若くして質朴で好学、関中の擾乱期に将軍段煨に身を寄せ木の実を採り行商しながら経書を離さず、後に黄門侍郎、明帝時代に侍中・大司農となった。老子・左伝に精通し、学びを乞う者に「まず百遍読め、読書百遍にして義自ら見る」と教え、農閑の「三余(冬・夜・雨天)」を学びの好機とするよう説いた。
- 『魏略』は董遇のほか賈洪・邯鄲淳・薛夏・隗禧・蘇林・楽詳の七人を儒宗として列伝している。賈洪は京兆新豊の人、春秋左伝に精通し馬超に露布文を書かせられた縁で太祖に召されたが不遇のまま没した。薛夏は天水の人、地元豪族の迫害を逃れて太祖・文帝に厚遇され秘書丞となった。隗禧は京兆の人、荊州に避難して経書を離さず学び星占にも通じ、太祖に召されて軍謀掾となり、老年まで教授を続けた。
史論
- 評に曰く、鍾繇は開達にして理幹あり、華歆は清純にして徳素あり、王朗は文博にして富贍、いずれも一時の俊偉であった。魏の初めの祚に肇めて三司に登った盛事であった。王肅は明敏で聞見広く、よく道理を析くことができた。劉寔は肅について「上に対して恭しい一方で自分に阿る者を好む点、栄貴を好みながら苟合を求めない点、財を惜しみながらも身を清く保つ点」の三つの一見矛盾する性質を評したという。