三國志卷十三 鍾繇華歆王朗傳第十三 華歆

華歆(字は子魚、平原高唐の人、?–太和五年)は清廉で知られた名臣。豫章太守を経て孫策・孫権に仕えた後、曹操の召還に応じて魏に帰参、尚書令・御史大夫を歴任し文帝践阼で司徒となった。俸禄をすべて施しに充てるなど無欲な人柄で知られた。

年表(3件)
  • 黄初中管寧を独行の君子として推挙した
  • 太和中曹真の蜀征討に対し諫言し、帝はこれを嘉した
  • 太和五年薨じ、敬侯と諡された

若年期から豫章太守まで

  • 華歆、字は子魚。平原郡高唐の人。高唐は斉の名邑で衣冠の士が市里を行き交ったが、歆は吏となっても休沐で退出すれば家に籠り、議論は公平で人を傷つけることがなかった。
  • 同郡の陶丘洪も知られた人物で、自ら見識は歆に勝ると自負していた。王芬が豪傑と結び霊帝廃立を謀った際、芬は密かに歆・洪を招いて計画に加えようとしたが、洪が行こうとするのを歆が「廃立の大事は伊尹・霍光ですら難しい、王芬は疎放で武略もなくこの企ては必ず成らず族に禍が及ぶ」と止めた。洪はこれに従って留まり、後に芬は果たして失敗し洪は歆に服した。
  • 孝廉に挙げられ郎中を除せられたが病により去官。霊帝崩御後、何進が輔政となり河南の鄭泰・潁川の荀攸や歆らを召した。歆は尚書郎となった。董卓が天子を長安に遷すと歆は下邽令として出ることを求めたが病のため赴かず、藍田を経て南陽へ向かった。
  • 袁術が穣にあり歆を留めた。歆は術に卓討伐の進軍を説いたが術は用いず、歆は去ろうとしたところ太傅馬日磾が関東安集の使者として歆を掾に辟し、東の徐州に至って豫章太守を拝命、政は清静で民に慕われた。

孫策・孫権への出仕から魏への帰参

  • 孫策が江東を略地するに及び、歆は策の用兵の巧みさを知り幅巾で出迎えた。策は歆を長者として上賓の礼で待遇した。
  • 策の死後、太祖が官渡にあって天子に歆の召還を上表した際、孫権はこれを拒もうとしたが、歆は「将軍は王命を奉じ曹公と好誼を始めたばかり、私を留め置くのは無用の物を養うようなもの、将軍のためになりません」と説き、権は悦んでこれを遣わした。送別の賓客は千余人に及び贈遺は数百金に達したが、歆はすべて拒まず密かに贈り主を記録しておき、去るに際してすべてを集めて返し「単車で遠行するのに璧を懐いて罪を招くようなことは避けたい」と述べ、贈った者たちは持ち帰りその徳に服した。

魏における官歴と人柄

  • 歆は召還されると議郎を拝し司空軍事に参与、尚書に入り侍中に転じ、荀彧に代わって尚書令となった。太祖の孫権征討では軍師を表され、魏国建国後は御史大夫となった。文帝の王位即位で相国を拝し安楽郷侯に封ぜられ、践阼に及んで司徒と改められた。
  • 歆はもとより清貧で、俸禄・恩賜はすべて親戚故人への施しにあて、家に蓄えがなかった。公卿がまとめて没収された生口(奴隷)を賜与された際も、歆だけはこれを解放して嫁がせ、帝は嘆息した。詔で「司徒は蔬食であるのに大官は重膳、はなはだ不釣り合いである」として特に御衣を賜い、妻子の衣服も作らせた。
  • 三府が「孝廉挙用は徳行を本とし試経を課すべきでない」と議した際、歆は「喪乱以来経学が廃れており、試経を課さねば学業がますます廃れる、秀才があれば特に徴用すればよい」と反論し、帝はこれに従った。
  • 黄初中、詔で公卿に独行の君子を挙げさせた際、歆は管寧を推挙し、帝は安車で寧を召した。明帝即位で博平侯に進封され邑五百戸を増して前と合わせ千三百戸となり、太尉に転じた。歆は病と称して退き位を寧に譲ろうとしたが帝は許さず、散騎常侍繆襲を遣わして出仕を促す詔を伝えさせ、歆はやむなく起った。
  • 太和中、曹真を子午道から蜀へ遣わし車駕が東の許昌に幸した際、歆は上疏して「兵乱以来二紀を過ぎた、聖化が広まれば遠人も自ずから帰服する、千里の運糧は用兵の利にあらず、今年の徴役は農桑を害している、まず治道に留意し征伐は後にすべき」と諫めた。帝は「国計を深く慮る君を嘉する、賊は山川を恃みに未だ平らげ難いが、天時が至らねば兵を退くのが古の戒め」と答えた。時に秋の大雨があり、詔で曹真の軍を引かせた。

一族

  • 太和五年、歆薨じ敬侯と諡された。子の表が嗣ぎ、文帝は歆の戸邑を分けて弟の緝を列侯に封じた。表は咸熙中に尚書となった。