劉虞への忠節
- 田疇、字は子泰。右北平無終の人。幽州牧劉虞の使者として長安の朝廷へ危険な道を単身踏破して至り、騎都尉を拝命したが天子蒙塵の中での栄寵を固辞した。帰途、虞は既に公孫瓚に殺害されており、疇は虞の墓に哭泣した。瓚に捕らわれ詰問された際も「劉公こそ忠節を失わなかった、将軍を讒言で語れば燕趙の士は皆去るだろう」と述べ、瓚はその気骨に免じて釈放した。
徐無山の自治と対烏丸の功
- 帰郷後、宗族数百人を率いて徐無山中に籠もり、数年で五千余家の共同体を築いた。人々に推されて指導者となり、殺傷・盗み・訴訟に関する二十余条の法や婚姻の礼、学校を定め、道に落とし物を拾わぬほどの秩序を実現した。烏丸・鮮卑も使者を送り貢納するようになった。袁紹・袁尚の招請もすべて拒んだ。
- 建安十二年、太祖の烏丸征討に召され、盧龍口から白檀の険を越える間道を献策し、太祖はこれにより蹋頓を急襲して大勝した(柳城の役)。
辞爵と最期
- 功により亭侯・食邑五百戸に封ぜられたが、疇は自らの避難生活が結果的に利となったに過ぎないとして固く辞退、太祖はその志を認めて一旦は容れたが、後に「一人の志を成すために王法の大制を欠くのは良くない」として再び封じようとし、疇はなお固辞し続けた。世子や荀彧・鍾繇らを交えた議論の末(薳敖・原思・子路の故事を引く議論)、遂に免官・処罰を求める声も出たが、太祖は夏侯惇を介して説得を試みるも疇は死を以て拒み通した。最終的に議郎に留められ、四十六歳で没した。文帝は疇の子孫(従孫の続)に関内侯を賜った。