三國志卷十 荀彧荀攸賈詡傳第十 荀彧
荀彧(字は文若、潁川潁陰の人、享年五十で没す)は「王佐の才」と評された曹操の腹心の参謀。天子奉迎を進言して献帝を許に迎えさせ、人材推挙・対袁紹策など枢要な献策で曹操の覇業を支えたが、魏公進爵に反対して疎まれ、失意のうちに病没した。
出自と若き日
- 荀彧、字は文若。潁川潁陰の人。祖父荀淑、字は季和、朗陵令。順帝・桓帝の頃に高名で、子八人あり「八龍」と称された。父緄は済南相、叔父爽は司空。
- 若い頃、南陽の何顒に「王佐の才」と評された。中常侍唐衡の娘を妻にした縁で論者に譏られたが、裴松之は年代的に整合しないとしてこの説を退けている。
- 永漢元年に孝廉に挙げられ守宮令。董卓の乱で亢父令となるが辞し、潁川は四戦の地だとして一族を率い冀州へ移った。当初は袁紹に厚遇されたが、紹が大事を為せぬと見極め、初平二年に太祖のもとへ投じた。太祖は喜び「わが子房なり」と称し司馬とした(時に二十九歳)。
兖州の危機を支える
- 太祖の徐州出征中、張邈・陳宮が呂布を迎えて叛いた際、彧は素早く守りを固め東郡太守夏侯惇を呼び寄せて謀反者数十人を誅し混乱を鎮めた。豫州刺史郭貢の来襲にも自ら赴いて説得し兵を退かせ、程昱と計り范・東阿の二城を保った。
徐州攻略より天子奉迎の献策
- 陶謙死後、太祖が徐州攻略を優先しようとした際、彧は関中・河内を固めた高祖・光武の故事を引き、まず兖州(河・済の要地)を固め呂布を破ってから徐州に向かうべきと説き、太祖はこれに従った。
- 建安元年、献帝が洛陽に還ると、彧は晋文公・高祖の故事を引いて天子奉迎を進言、太祖は洛陽に至り天子を許に迎えた。彧は侍中・守尚書令となり、以後は常に中枢にあって太祖の遠征を支えた。
人物評と人材推挙
- 彧は私情を排し公正であったと伝わる(一族の起用を求められても断った逸話)。太祖の下で荀攸・鍾繇・戯志才・郭嘉ら多くの人材を推挙し、太祖から「知人」と称賛された。禰衡の逸話(孔融の推挙、太祖の侮辱、荊州での死)も付記される。
官渡の戦いと対袁紹策
- 袁紹の増長に対し太祖が対応を問うと、彧は「度・謀・武・徳」の四点で太祖が紹に勝ると説き(度勝・謀勝・武勝・徳勝)、士気を鼓舞した。呂布を先に討つべきとも進言し、関中の韓遂・馬超には懐柔策を勧め鍾繇に西方を任せるよう提案した。
- 官渡で兵糧が尽きかけ太祖が撤退を考えた際、彧は楚漢滎陽の故事を引いて堅守を説き、太祖は踏みとどまり奇襲で袁紹の別営を破った。田豊・審配・許攸をめぐる彧の分析(田豊は剛直で許攸は貪欲、審配・逢紀の不和)もすべて的中したと記される。
冀州平定後の献策
- 太祖が冀州を得て九州制の復古を議した際、彧は関右諸将の動揺を懸念して反対し、太祖はこれを容れた。
- 兄荀衍は監軍校尉として鄴を守り、高幹の襲撃計画を未然に防いだ功で列侯となった。荀氏一族の学識・官歴も付記される。
封侯と辞退
- 建安八年、万歳亭侯に封ぜられたが野戦の功なしとして固辞、太祖は「功は野戦のみに限らない」と説得し受けさせた。十二年にはさらに千戸増封され、これも固辞したが太祖の書簡で押し切られた。三公への推挙も荀攸を通じて固辞し続けた。
- 劉表征討では奇襲策を献じ的中させた。
魏公建国への異論と死
- 建安十七年、董昭らが太祖の魏公進爵・九錫授与を議した際、彧は「太祖は本来漢室を匡すために挙兵した」として反対、太祖はこれを快く思わなくなった。孫権征討に際し彧を譙へ慰労に赴かせたまま留め、侍中光祿大夫・持節・参丞相軍事とした。
- 太祖軍が濡須に至った頃、彧は寿春で病没した(享年五十)。諡は敬侯。翌年太祖は魏公となった。『魏氏春秋』は空の食器を贈られたことを機に服毒したとも伝える。彧は生前の上奏文をすべて焼き捨てたため、その謀策の多くは伝わらなかったという。
- 彧の人物評(司馬懿・鍾繇の評、多くの人材推挙の実績)と、董承・伏后事件への関与を疑う『献帝春秋』の記事、裴松之による反証も付す。
荀彧の子孫
- 長子惲は太祖の娘(安陽公主)を娶ったが文帝との不和で疎まれた。惲の弟俁・詵も名を知られた。惲の子甝・霬は文帝の外孫として厚遇され、それぞれ嗣子が官歴を重ねた(霬の子愷は征西大将軍に至る)。荀彧の族子である荀顗(司空・太尉)、荀粲(清談で知られる)ら子孫の事績も付記される。