軍歴
- 曹洪、字は子廉。太祖の従弟。太祖挙兵時の滎陽の敗戦で太祖が馬を失い賊に迫られた際、自らの馬を譲り「天下に洪はなくてよいが、君はなくてはならない」と述べ、徒歩で太祖を助けて逃した。揚州刺史陳温のもとで募兵し廬江・丹楊で数千の兵を得て太祖と合流。徐州征討中に張邈・呂布が乱を起こした際は東平・範を確保し糧を蓄えて軍を支え、濮陽の戦いや済陰・山陽など十余県の攻略に功をあげ鷹揚校尉・揚武中郎将となった。
- 天子を許に迎えると諫議大夫を拝し、劉表配下との戦い(舞陽・陰葉・堵陽・博望)でも功をあげ厲鋒将軍・国明亭侯となった。累代の功で都護将軍となり、文帝即位後は衛将軍から驃騎将軍・野王侯(二千百戸)、位特進を経て都陽侯に徙封された。
文帝との確執
- 洪は富裕だが吝嗇な性質で、文帝は若い頃に金品を求めても応じられず恨みを抱いていた。のち舎客が法を犯した罪に連座し洪は死罪に問われたが、群臣の助命嘆願も効かず、卞太后が郭皇后に「今日曹洪が死ねば明日帝を廃する」と迫ってようやく官と爵位を削られるだけで済んだ。文帝側近の曹真も助命を試みたが退けられ、最終的に卞太后の叱責によって釈放された(財産の没収は当初続いたが後に返還された)。
- 洪はかつて曹操から「私の資産すら子廉には及ばない」と評されるほどの富豪であったが、罪を許された際には自らの不徳を謝する上表を献じた。功臣であったため世に不満の声もあったが、明帝即位後は後将軍・楽城侯、位特進、驃騎将軍を歴任し、太和六年に薨じ恭侯と諡された。子の馥が嗣いだ。曹操はかつて洪の戸を分け子の震を列侯に封じている。族父の曹瑜も謹厳な人柄で衛将軍・列侯に至った。