三國志卷八 二公孫陶四張傳第八 公孫度
公孫度(字は升済、遼東襄平の人)は玄菟の小吏から遼東太守となり、豪族を誅して威を張り、中原の混乱に乗じて遼東・楽浪一帯に自立し平州牧・遼東侯を称した。子の康、孫の恭・淵と三代にわたり遼東に割拠したが、淵の代に魏に反して滅ぼされた。
出自と遼東平定
- 公孫度、字は升済。遼東襄平の人。父の延は官吏の追及を避けて玄菟に移り住み、度を郡吏とした。時の玄菟太守公孫琙は早世した子・豹と度が同齢で名も同じ「豹」であったことから度を親しく愛し、遊学させ妻を娶らせた。度は後に有道に挙げられ尚書郎を除せられ、冀州刺史に遷ったが讒言によって免ぜられた。同郡出身で董卓の中郎将であった徐栄の推薦により、度は遼東太守となった。度は玄菟の小吏の出身として郡から軽んじられていたため、着任すると属国の公孫昭を捕らえ襄平の市で笞殺し、郡中の豪族・田韶ら百余家を法にかこつけて誅滅し、郡中を震え上がらせた。度は東は高句驪を伐ち西は烏丸を撃ち、その威は海外にまで及んだ。
自立と後継
- 初平元年(190年)、度は中原の擾乱を見て親信の柳毅・陽儀らに「漢の命運は尽きようとしている、諸君と共に王図を計ろう」と語った。当時、襄平の延里の社に大石が生じ、下に三つの小石を足のように従えているという瑞祥が語られ、度はますます自負を強めた。旧知の河内太守李敏は度の所業を憎み害を恐れて一族で海に逃れたため、度は怒ってその父の墓を暴き棺を裂いて屍を焼き、宗族を誅した。度は遼東郡を分けて遼西・中遼の郡を置き太守を設け、海を渡って東萊の諸県を収め営州刺史を置き、自ら遼東侯・平州牧を称し、父延を建義侯に追封した。漢の二祖(高祖・光武帝)の廟を立て、襄平城南に壇を設けて天地を郊祀し、藉田・治兵を行い、天子に准ずる鸞路・九旒の儀仗を用いた。太祖は度を武威将軍・永寧郷侯に表挙したが、度は「私は遼東の王たる身、永寧などいらぬ」と言って印綬を武庫に蔵し受けなかった。度が死ぬと子の公孫康が嗣ぎ、永寧郷侯は弟の公孫恭に改めて封ぜられた。この年は建安九年(204年)である。
- 建安十二年(207年)、太祖が三郡烏丸を征討して柳城を屠り、袁尚らが遼東に逃げ込むと、康はこれを斬って首を送った(詳しくは武帝紀にある)。康はこの功により襄平侯に封ぜられ左将軍を拝した。康が死んだとき子の晃・淵らはまだ幼く、衆は公孫恭を推して遼東太守とした。文帝が即位すると使者を遣って恭を車騎将軍・仮節に拝し平郭侯に封じ、康には大司馬を追贈した。
公孫淵――簒奪と呉との通交
- 恭は病により体が衰弱し(宦官のような状態となり)国を治める力を失っていた。太和二年(228年)、淵は恭の地位を脅かして奪った。明帝はその即位に伴い淵を揚烈将軍・遼東太守に任じた。淵は南の孫権と使者を通わせ贈り物を往来させた。淵は権に上表し、先代以来漢・魏に仕えてきたが天命の帰趨がまだ定まらぬことを憂い、田饒・楽毅・陳平・耿況の去就の故事を引きつつ魏への不信と権への傾倒を訴えた。
- 魏朝は淵が呉魏の間で日和見していることを知り、遼東・玄菟の吏民には赦の文書を下し、孫権の悖逆と遼東の吏民が呉と通じることの非を説き、寛大な処置を約した。
公孫淵――魏への反逆と滅亡
- 孫権は張弥・許晏らに金玉珍宝を持たせて使者を遣り、淵を燕王に立てた。しかし淵は権が遠く頼みにならぬ上にその財物を貪りたいと考え、使者を誘い入れたのち張弥・許晏らを斬ってその首を魏へ送った。淵はまず宿舒・孫綜を呉に遣って誘い、権が張弥・許晏ら吏兵四百余人および軍将賀達・虞諮の船隊を送ってくると、これを伏兵で斬り、別に韓起らを沓津に伏せて賀達・虞諮の部隊を急襲し、首級三百余、溺死者二百余を得て、印綬・兵器・資貨を数え切れぬほど獲得、孫権から授けられた燕王の節・印綬・符策・九錫とともに張弥らの首級を魏に献上した。淵はこの間何度も上表し、呉を誘ったのはあくまで謀略であり内心では終始魏に忠であったと弁明し、恐懼して罪を請うた。
- 明帝は淵を大司馬に拝し楽浪公に封じ、持節のまま郡を治めさせた。中領軍夏侯献はこれについて上表し、淵が両端を持つ理由や、遼東で人望のある奉車都尉鬷弘を使者として招撫にあたらせるべきことを論じた。
- 魏の使者・傅容、聶夔が淵を樂浪公に任ずるため遼東に至ると、淵は兵を並べて威を示し、刺客ではないかと疑って先に館舎を兵で囲んでから拝を受けたため、容・夔は大いに恐れて洛陽に帰り事の次第を報告した。景初元年(237年)、魏は幽州刺史毌丘倹らに璽書を持たせ淵を召したが、淵は兵を発して遼隧で迎え撃ち、倹らは利あらずして退いた。淵はついに自ら燕王を称し百官を置き、使者に節を持たせ鮮卑単于の璽を仮して辺民を封拝し、鮮卑を誘って北方を侵させた。淵は同時に呉にも謝罪の使者を送り燕王を自称して与国を求める一方、なお魏に対しても官属に上表させ、公孫度・康父子二代の魏への忠勤の功績、自らに反心なく讒言によって誣告されたに過ぎないこと、突然の魏軍来襲に対して郡の官民が自発的に決起して抵抗した経緯などを縷々述べ、歴史の故事を引いて忠義を訴え、明帝に事情を明察して罪を宥すよう懇請した。
- 景初二年(238年)春、太尉司馬懿を遣って淵を征させ、六月、軍は遼東に至った。淵は自ら「紹漢元年」を称し、魏軍来襲を聞いて再び呉に臣従を称え援兵を乞うた。呉の羊衜は「淵の使者を厚遇し、密かに奇兵を送って成り行きを見るべきだ」と献策し、権はこれに従い淵の使者に激励の言葉を送った。淵は将の卑衍・楊祚らに遼隧を守らせたが、司馬懿の遣わした胡遵らがこれを破り、さらに東南に向かうと見せて実は襄平を急襲したため衍らは夜逃げした。首山でも淵軍は再び破られ、魏軍は襄平を包囲した。折からの霖雨で遼水が氾濫し輸送船が直接城下に至るという幸運もあり、雨が止むと土山を築き弩を並べて攻め立てた。城中は糧が尽きて人が人を食うほどとなり、楊祚らは降伏した。八月、大きな流星が首山の東北から襄平城の東南に落ち、淵は子の脩と共に数百騎で東南に突囲を試みたが、まさにその流星の落ちた場所で親子ともに斬られた。城が破れると相国以下千余の首級が斬られ、淵の首は洛陽に送られ、遼東・帯方・楽浪・玄菟はことごとく平定された。
- 淵の家にはかねて怪異の兆しがあった――犬が頭巾を被り絳衣をまとって屋根に上ったこと、炊事の際に甑の中で小児が蒸し死にしていたこと、襄平北市に頭も口も目もあるが手足のない生肉の塊が生じ動いたことなどで、占者は「形をなさず声もない、この国は滅びる」と判じた。度が中平六年に遼東を拠点として以来、康・淵の三世を経て凡そ五十年で滅んだ。淵の兄・公孫晃は恭の人質として洛陽にあり、淵が恭の地位を奪ったことを知って幾度も上表しこれを討つよう求めていたが、淵が反すると法により晃も捕らえられた。晃は死を免れないことを悟り子と抱き合って泣いた。明帝は晃を助けようとしたが有司が不可とし、ついに晃は処刑された。