三國志卷二 文帝

武帝(曹操)の太子、諱は丕、字は子桓(187–226年、享年40)。建安二十五年、父の死により丞相・魏王の位を嗣ぎ、同年のうちに献帝から禅譲を受けて魏の初代皇帝となった。文才に優れ『典論』等の著作を残す一方、呉・蜀への南征はしばしば成果に乏しかった。

年表(12件)

出自と生い立ち

  • 文皇帝、諱は丕、字は子桓、武帝(曹操)の太子。中平四年(187年)冬、譙にて誕生。『魏書』は誕生時に瑞雲が終日たなびき、望気者が至貴の兆と評したと伝える。
  • 八歳で文章を作る才を示し、博く経伝・諸子百家に通じた。騎射を善くし撃剣を好んだ。茂才に挙げられたが赴任しなかった。
  • 建安十五年(210年)、司徒趙温の辟召を受けたが、曹操が趙温の選挙が不実であるとして上表し、温は罷免された。
  • 建安十六年(211年)、五官中郎将・副丞相となる。建安二十二年(217年)、魏太子に立てられた。『魏略』は、相者高元呂が丕の貴相と四十歳前後の小さな厄運を予言し、実際四十歳で崩じたと伝える逸話を載せる。
  • 建安二十五年(220年)、父武帝が崩じ、丕は丞相・魏王の位を嗣いだ。袁宏『漢紀』は献帝の詔・冊命を載せ、丕に丞相印綬・魏王璽紱を授け冀州牧を領させた経緯を伝える。丕は生母卞氏を王太后と尊び、建安二十五年を延康元年と改めた。

延康元年(220年)――魏王としての施政

  • 二月、『魏書』所載の庚戌令により関津・池苑の重税を除き什一税に復した。辛亥、諸侯王以下に穀・帛・金銀を賜い、地方官の不正を糾すため使者を諸郡国に巡行させた。壬戌、賈詡を太尉、華歆を相国、王朗を御史大夫とし、散騎常侍・侍郎を各四人置き、宦官の任官上限を定め、金策に記して石室に蔵した。
  • 熹平五年(176年)に譙で見えた黄龍にまつわる予言(太史令単颺の「五十年以内に再び現れる」との言)が、四十五年後の三月、譙で再び黄龍が現れたことで的中したという故事が付される。
  • 己卯、夏侯惇を大将軍とした。濊貊・扶余単于・焉耆・于闐王が使者を送り朝献した。丁亥令により、毛玠・王脩・涼茂・袁渙・謝奐・国淵ら忠直の臣で早世した者の子を郎中に任じた。
  • 夏四月丁巳、饒安県が白雉出現を報告。庚午、大将軍夏侯惇が薨じ、丕は素服で城門にて発哀した(孫盛はこれを礼に外れると論じる)。
  • 五月戊寅、天子の命により祖父曹嵩を太王、丁夫人を太王后と追尊、王子曹叡(後の明帝)を武徳侯に封じた。同月、馮翊の山賊鄭甘・王照が降伏し列侯に封ぜられた。
  • 酒泉の黄華・張掖の張進らが太守を執らえて叛いたが、金城太守蘇則が張進を討ち斬った。黄華は降伏し、後に兖州刺史となる。
  • 六月辛亥、東郊で治兵。庚午、丕は南征に出発した。度支中郎将霍性が出兵を諫めたが、丕は怒りこれを誅殺した(後に悔いたという)。
  • 秋七月庚辰、令により百官に諫言を求め広く民意を聴く方針を示した。
  • 孫権が使者を送り朝献。蜀将孟達が衆を率い降伏、武都氐王楊僕も内附し漢陽郡に居住させた。
  • 甲午、譙に至り六軍と父老百姓を饗応し、租税を二年免除した。丙申、譙陵を親祭。孫盛はこの喪中の饗宴を礼に悖ると厳しく批判し、後の魏の短命の予兆と論じる。八月、石邑県が鳳凰出現を報告。
  • 冬十一月癸卯、戦死者の遺骸を収斂し家族に送る令を出した。丙午、曲蠡に至る。

延康元年(220年)(禪代)

  • 献帝は魏への衆望を見て禅譲を決意。袁宏『漢紀』所載の詔で堯舜の故事に倣い魏王への譲位を告げ、御史大夫張音に璽綬を持たせ禅代の冊を奉じさせた。
  • 左中郎将李伏や太史丞許芝らが図讖・符命(黄龍出現、「当塗高」の讖など)を挙げて禅代を勧め、丕はこれに対し繰り返し辞譲の令を発した。桓階・華歆・王朗ら群臣、督軍御史中丞司馬懿らも重ねて上奏し受禅を勧め、丕はなお三度・四度と辞譲の上表を重ねる形式的な応酬(三讓)を経た。
  • 十月乙卯、献帝は正式に冊詔を下し禅譲を告げた。桓階らの奏請を経て、庚午、繁陽に壇を築き、丕は壇に登り帝位に即いた(受禅)。改元して延康を黄初とし、大赦を行った。『献帝伝』は辛未、公卿・列侯・匈奴単于ら数万人が陪位し天地・五嶽・四瀆を祭った祝文の全文を載せる。
  • 『魏氏春秋』は受禅の礼を終えた丕が群臣を顧みて「舜・禹の事、吾これを知れり」と語ったと伝える。干宝『捜神記』は宋の邢史子臣の予言(「四百年後、邾王天下たり」)を魏の興隆の符応として載せるが、干宝自身は年数が符合しない点を疑問視している。

黃初元年(220年)

  • 十一月癸酉、河内山陽邑一万戸を献帝(山陽公)に与え、漢の正朔・郊祭・上書不称臣を許し、その四子を列侯とした。祖父曹嵩を太皇帝、父曹操を武皇帝、卞王太后を皇太后と追尊した。男子に爵位を与え、漢の諸侯王を崇徳侯、列侯を関中侯とした。潁陰の繁陽亭を繁昌県とした。相国を司徒、御史大夫を司空、奉常を太常、郎中令を光禄勲、大理を廷尉、大農を大司農と改称し、郡国県邑の名も多く改めた。匈奴南単于呼廚泉に魏の璽綬を改授した。十二月、洛陽宮の造営を開始し戊午、洛陽に行幸した。夏正を用い服色は黄を尚び、忌避のため「雒」を「洛」に改めた(水を土に代えるという五行相剋の理による)。
  • 是歳、長水校尉戴陵が狩猟の多さを諫めて帝の怒りを買い、死罪一等を減じられた。

黃初二年(221年)

  • 春正月、天地を郊祀し明堂を祀る。甲戌、原陵で校猟し使者に漢世祖(光武帝)を祀らせる。乙亥、東郊で朝日。初めて、郡国の戸口十万につき孝廉一人を推挙する令を定めた。辛巳、三公の戸邑を分け子弟を列侯に。壬午、潁川郡の田租を一年免除(先帝の起兵の地であるため)。許県を許昌県と改称。魏郡を分けて陽平郡・広平郡を置く。『魏略』によれば長安・譙・許昌・鄴・洛陽を五都とし境界を画定した。
  • 孔子の後裔孔羨を宗聖侯に封じ、闕里の廟を修めさせる詔を出した。
  • 三月、遼東太守公孫恭を車騎将軍とする。初めて五銖銭を復行。夏四月、曹仁を大将軍とする。五月、鄭甘が再び叛き曹仁が討ち斬る。六月庚子、初めて五嶽四瀆を祀る。甲辰、帝は建始殿で武帝を親祭。丁卯、夫人甄氏卒。戊辰晦、日食があり有司が太尉の免職を奏したが、帝は「災異の責を臣下に転嫁すべきでない」として拒んだ。
  • 秋八月、孫権が使者を送り章を奉じ、于禁らを送還。丁巳、邢貞を遣わし孫権を大将軍・呉王に拝し九錫を加える。冬十月、楊彪に光禄大夫を授ける。楊彪は漢の旧臣として魏に仕えることを恥じ固辞したが、帝は優遇を尽くした(八十四歳で黄初六年に没する)。穀価高騰により五銖銭を廃止。十一月、曹真らが叛胡治元多らを討ち破り、河西を平定。十二月、東巡。是歳、陵雲台を築く。

黃初三年(222年)

  • 春正月丙寅朔、日食。庚午、許昌宮に行幸。年齢によらず有能な人材を登用する詔を出す。孫権が劉備討伐への協力を申し出、帝は隗囂・公孫述の故事を引いて奮戦を促した。
  • 二月、鄯善・亀茲・于闐王が使者を送り朝献。西域が通じ、戊己校尉を置く。
  • 三月乙丑、斉公曹叡を平原王に立て、弟の鄢陵公曹彰ら十一人を王とした。封王庶子は郷公、嗣王庶子は亭侯、公庶子は亭伯と定めた。甲戌、皇子曹霖を河東王に立てる。夏四月戊申、鄄城侯曹植を鄄城王とする。五月、荊・揚・江表八郡を荊州、江北諸郡を郢州とする。
  • 閏月、孫権が夷陵で劉備を撃破。帝は劉備の七百里連営の陣形を「敵に包囲される兵法上の禁忌」と評し、後に敗報が的中した。
  • 秋七月、冀州の蝗害・飢饉に杜畿を遣わし倉廩を開かせる。八月、蜀の大将黄権が衆を率いて降伏。帝は承光殿で引見し厚く賞賜、侍中鎮南将軍・列侯に封じ、史郃ら四十二人も列侯とした。
  • 九月甲午、婦人の政治関与・外戚の輔政を禁じる詔を発した(孫盛は外戚排斥の一般化を行き過ぎと論じる)。庚子、郭氏を皇后に立てる。
  • 冬十月甲子、首陽山東を寿陵とし終制(薄葬の遺詔)を発した。棺槨は骨を朽ちさせるに足るのみとし、金銀珠玉の副葬を禁じ、漢代諸陵の盗掘の惨状を教訓に薄葬を厳命した。
  • 是月、孫権が再び叛き、帝は自ら南征し諸軍を進めたが権は江を隔てて拒守した。十一月辛丑、宛に行幸。庚申晦、日食。是歳、霊芝池を穿つ。

黃初四年(223年)

  • 春正月、私的な復讐の禁止を族誅の刑で厳命する詔。宛に南巡台を築く。三月丙申、宛より洛陽宮に還る。癸卯、月が心宿中央大星を犯す。丙午詔で、征東諸軍が呉将呂範を破り船一万艘を得たこと、大司馬が濡須で数万を捕獲したこと、中軍・征南が江陵を包囲し呉軍に多数の溺死者を出させたことなどの戦況を述べ、疫病の流行を理由に江陵の囲みを解くよう命じた。丁未、大司馬曹仁薨。是月、大疫。

黃初五年(224年)

  • 夏五月、霊芝池に鵜鶘が集まったことを詩経の諷刺に結び付け、賢才の推挙を命じる詔。有司が太皇帝廟・武皇帝廟の造営を奏し、武帝廟は万世不毀と定めた。
  • 六月甲戌、任城王曹彰が薨去。甲申、太尉賈詡が薨去。太白が昼に現れる。是月大雨で伊水・洛水が氾濫し人民を殺し廬宅を壊す。秋八月丁卯、鍾繇を太尉とする。有司が漢の宗廟音楽・舞名を改める。辛未、熒陽で校猟し東巡、孫権討伐の論功行賞を行う。九月甲辰、許昌宮に行幸。是冬、芳林園に甘露が降る。

黃初六年(225年)

  • 春正月、謀反大逆以外の告発を禁じる令。三月、許昌より洛陽宮に還る。夏四月、太学を立て五経試験制度を定め春秋穀梁博士を置く。五月、公卿の朔望朝見で政事の得失を論議させる。秋七月、東巡し許昌宮に幸す。八月、水軍を編成し親しく龍舟に乗り、蔡水・頴水を経て淮水に浮かび寿春に幸す。揚州の軽罪者を赦す。九月、広陵に至り青・徐二州を赦す。冬十月乙卯、太白昼見。許昌宮に還る。癸酉詔で法令の煩雑を改め寛簡を旨とする方針を示した。十一月庚寅、冀州の飢饉に倉廩を開かせる。戊申晦、日食。
  • 十二月、非祀の淫祠・巫祝を禁ずる詔。是歳、天淵池を穿つ。

黃初七年(226年)――崩御

  • 春二月、許昌以東沛郡までを巡行させ民の疾苦を問い、貧者を賑給する。三月、召陵に行幸し討虜渠を通す。乙巳、許昌宮に還る。并州刺史梁習が鮮卑軻比能を大破。辛未、帝は舟師で東征。五月戊申、譙に幸す。壬戌、熒惑が太微に入る。
  • 六月、利成郡兵蔡方らが太守徐質を殺して反乱、任福・段昭らが討平。
  • 秋七月、皇子曹鑒を東武陽王に。八月、舟師で徐州に至る。九月、東巡台を築く。冬十月、広陵故城に行幸し臨江観兵、戎卒十余万・旌旗数百里の威容を示す(帝みずから馬上で詠じた詩が伝わる)。大寒で水道が凍結し軍船が進めず引き返した。十一月、東武陽王曹鑒薨。十二月、故太尉橋玄を太牢で祀る。
  • 帝は許昌へ向かう途中、城門が理由なく崩れたのを不吉として入城せず洛陽に還った。三月、九華台を築く。夏五月丙辰、帝は病篤となり、曹真・陳羣・曹休・司馬懿に後事を託した。後宮の淑媛・昭儀以下を実家に帰した。丁巳、嘉福殿にて崩御、享年四十。六月戊寅、首陽陵に葬られた。殯葬はすべて薄葬の終制に従った。曹植(陳思王)が長大な誄を献じ、帝の功業と哀悼の情を綴った。

文事と著述

  • 帝は文学を好み著述を務め、自ら成した著作は百篇近くに及んだ。諸儒に経伝を類纂させ千余篇の『皇覧』を編ませた。皇太子時代、疫病の流行に触発され王朗への書簡で「不朽たるは立徳・立言のみ」と述べ、それが『典論』・詩賦(あわせて百余篇)の著作動機になったと伝わる。
  • 帝は漢文帝を寛仁で徳化を旨とした賢君として称え『太宗論』を著し、孫権討伐を望まぬ意を示すため天下に頒布した。一方で漢文帝の欠点として、薄昭の誅殺・鄧通の寵愛・慎夫人の倹約の不徹底の三点を挙げて非とした。
  • 胡沖『呉歴』は、帝が『典論』・詩賦を孫権に贈り、また写しを張昭にも与えたと伝える。

史論

  • 陳寿は評して、文帝は生来文才に恵まれ、筆を執れば文章を成し、博聞強記で文武の芸を兼備したと述べる。文帝自身の『典論』自叙を引き、初平年間の董卓の乱の惨状の中、五歳から弓馬を学び八歳で騎射に習熟したこと、建安初年の張繍の反乱で異母兄曹昂・従兄曹安民を失いながら自身は乗馬で難を逃れたこと、建安十年の冀州平定後に鄴で従兄曹丹と一日で麞鹿九頭・雉兎三十を得た狩猟の逸話、荀彧との射術問答、剣術の師事(史阿を通じ王越の剣法を学んだこと)、平虜将軍劉勲・奮威将軍鄧展との手合わせで鄧展の腕を三度打った逸話、双戟を得意としながら陳国の袁敏に単戟での対抗術を学んだこと、弾棋を能くしたことなどが詳しく記される。学問にも勤め、詩・論語から五経・四部・史漢諸子百家まで広く読破したという。
  • 陳寿は末尾で、闊達さと公平さを加えていれば、古の賢主に劣らなかったであろうと評している。