三國志卷一 武帝
沛國譙の人。姓は曹、諱は操、字は孟德(155–220年、享年66)。宦官曹騰の孫、曹嵩の子。黃巾討伐で頭角を現し、董卓討伐の義兵に加わって以後、群雄を次々に討って献帝を擁し丞相・魏公・魏王となった。官渡で袁紹を破って華北を平定し、赤壁では劉備・孫権連合に敗れて天下統一はならなかったが、後漢末最大の実力者として魏建国の基盤を築いた。
年表(22件)
- 光和末184年黃巾討伐に従軍し騎都尉となり、後に濟南相となって不正官吏を粛清
- 中平六年189年董卓の招きを拒み姓名を変えて逃れ、後に義兵を集めて挙兵
- 初平元年190年反董卓連合に加わり奮武將軍を代行、汴水で徐榮に敗れる
- 初平三年192年青州黃巾を降し精鋭を青州兵とし、劉岱死後に兖州牧に迎えられる
- 興平元年194年父曹嵩の仇として陶謙を討伐、張邈・呂布の叛乱で兖州の大半を失う
- 興平二年195年呂布・張邈を破って兖州を平定し、天子より兖州牧に任じられる
- 建安元年196年天子を許に迎えて大將軍・武平侯となり屯田を開始
- 建安二年197年張繡との戦いに敗れ長子曹昂・甥曹安民を失う
- 建安三年198年下邳で呂布を破って処刑し、青徐沿海を平定
- 建安五年200年官渡の戦いで袁紹を大破し天下に敵なしとなる
- 建安七年202年袁紹が病死し子の袁譚・袁尚が跡目を争う
- 建安九年204年鄴を陥落させ審配を斬って冀州を平定し、冀州牧となる
- 建安十年205年袁譚を斬って冀州を平定する
- 建安十二年207年白狼山で烏丸の蹋頓を斬り三郡烏丸を平定
- 建安十三年208年丞相となるが、赤壁で劉備に敗れ疫病もあり軍を引く
- 建安十五年210年唯才是挙の求賢令を出す
- 建安十六年211年潼関で馬超・韓遂の連合軍を破り関中を平定
- 建安十八年213年魏公に封ぜられ九錫を受ける
- 建安二十年215年張魯を降して漢中を平定する
- 建安二十一年216年魏王に爵を進められる
- 建安二十四年219年夏侯淵が劉備に討たれ、関羽が于禁を降し樊城を包囲
- 建安二十五年220年洛陽で薨去。享年六十六
出自と生い立ち
- 太祖武皇帝は沛國譙の人。姓は曹、諱は操、字は孟德。漢の相國曹參の後裔とされる。『曹瞞傳』は太祖の一名を吉利、小字を阿瞞と伝える。
- 王沈『魏書』によれば、曹氏の先祖は黃帝に出て高陽氏の代に陸終の子・安に至り曹姓を名乗った。周の武王が殷を滅ぼした際、曹俠を邾に封じ、戰國時代に楚に滅ぼされて子孫は各地に散り、その一部が沛に住んだ。漢の高祖の挙兵時、曹參は功により平陽侯に封ぜられ、爵位は一度絶えて後に復した。
- 桓帝の世、曹騰は中常侍大長秋となり費亭侯に封ぜられた。司馬彪『續漢書』は、騰の父・節(字元偉)が隣人と豚の所有をめぐる争いで争わず譲った逸話や、騰が永寧元年(120年)に鄧太后の詔で皇太子付きに選ばれ、順帝の代に中常侍大長秋にまで昇り、三十余年仕えて四帝を歴事しながら過失がなかったこと、陳留の虞放・邊韶、南陽の延固・張溫、弘農の張奐、潁川の堂谿典ら賢能を推挙して恩に着せなかったことを記す。蜀郡太守が騰に賄賂した件で益州刺史种暠が弾劾した際も、桓帝は騰を罰さず、騰も种暠を恨まず後にその人柄を称えた(种暠自身「今日三公になれたのは曹常侍のおかげ」と語ったという)。桓帝即位後、騰は忠孝により費亭侯・特進に加えられ、太和三年(229年、魏の代になってから)に高皇帝と追尊された。
- 騰の養子・曹嵩が跡を継ぎ、官は太尉に至ったが、その出自の実態は不明であった。『續漢書』は嵩の字を巨高とし、司隷校尉から大司農・大鴻臚を経て太尉になったとする。黃初元年(220年)、嵩は太皇帝と追尊された。『曹瞞傳』や郭頒『世語』は、嵩がもと夏侯氏の子で夏侯惇の叔父にあたり、太祖と惇は從父兄弟の間柄になると伝える。嵩が太祖を生んだ。
- 太祖は少年期から機敏で権謀にたけていたが、任俠にふけり素行を治めず、世人にはさほど評価されなかった。『曹瞞傳』は、太祖が若くして鷹狩や犬に興じて遊蕩し、叔父が父嵩にたびたび告げ口をしたため、太祖が中風を装って叔父を欺き、以後叔父の言を父が信じなくなったので、いよいよ放埒に振る舞えるようになった逸話を伝える。
- 梁國の橋玄、南陽の何顒だけは太祖を非凡と見抜いた。橋玄は「天下は乱れよう。命世の才でなければ済度できぬ。それを鎮められるのは君ではないか」と評し、『魏書』によれば「わしは天下の名士を多く見てきたが、君のような者はいない。妻子を託したい」とまで言ったという。橋玄によって太祖の名声は高まった。『續漢書』は玄の字を公祖とし、張璠『漢紀』は玄が剛断で知られ謙倹に士に下ったこと、光和年間に太尉となり病で辞したのち貧しく葬儀もままならなかったことを伝える。『世語』は、玄が太祖に許子將(許劭)と交わるよう勧めたと伝える。
- 孫盛『異同雜語』は、太祖がかつて中常侍張讓の邸に忍び込み、見つかって手戟を振るいながら塀を越えて脱出した逸話や、太祖が博覧強記で兵法を好み諸家の兵法を抄集して『接要』と名付け、また孫武十三篇に注をつけたことを伝える。太祖はかつて許子將に「私はどんな人間か」と問い、子將は「治世の能臣、乱世の姦雄」と答えたといい、太祖は大いに笑ったという。
- 二十歳で孝廉に挙げられて郎となり、洛陽北部尉に任じられた。『曹瞞傳』によれば、太祖は着任するや四門を修繕し、色分けした棒を左右各十余本掲げて禁を犯す者は身分を問わず打ち殺したため、靈帝寵愛の小黃門・蹇碩の叔父が夜行を犯した際にも容赦なく処刑し、京師は震え上がった。近習の寵臣たちはこれを憎みつつも手を出せず、かえって推薦して頓丘令に転じさせた。その後徵されて議郎となった。『魏書』によれば、従妹の夫・宋奇が誅殺された際は連座して免官されたが、古学に明るいことで再び議郎に召された。
- 大將軍竇武・太傅陳蕃が宦官誅殺を謀って逆に殺害された事件(168年)に際し、太祖は竇武らの正しさと姦邪が朝廷に満ちている実情を訴える上書を行ったが、靈帝は用いなかった。その後、州県の失政を民の謠言で罷免させる詔が出たが、三公は姦邪に阿り貴戚を避けて公正に挙奏しなかった。太祖は災異による問責の機会に再度切諫したが、政治はますます乱れ、太祖は匡正しがたいと悟って以後は上言をやめた。
光和末(184年)――黃巾討伐と濟南相
- 光和末、黃巾が蜂起すると太祖は騎都尉に任じられ潁川の賊を討った。その後濟南相に遷る。国内十余県の長吏の多くが貴戚に阿附し不正を働いていたため、太祖はそのうち八人を奏して免職し、淫祀を禁断した。『魏書』によれば、貪欲な長吏たちは太祖の着任を聞いて自ら職を退き、姦悪の徒は他郡へ逃げ、政教は大いに行われて一郡が清平になったという。
- 濟南では城陽景王劉章の祠が濫立し六百余に及んでいたが、太祖はこれらをすべて破却し祭祀を禁じた。
- 久しくして東郡太守に徵されたが赴任せず、病と称して郷里に帰った。『魏書』によれば、当時権臣が朝を専らにし貴戚が横恣であったため、太祖は道に背いて阿ることを拒み、禍を恐れて宿衞として留まることを願い出て議郎となり、常に病と称して帰郷し、城外に室を築いて春夏は書を読み秋冬は狩猟に興じたという。
王芬らの廢立謀議(185年頃)
- 冀州刺史王芬、南陽の許攸、沛國の周旌らが豪傑と結んで靈帝を廃し合肥侯を立てようと謀り、太祖に加わるよう誘ったが、太祖は拒絶した。芬らは結局失敗し、王芬は自殺した。
- 司馬彪『九州春秋』は、陳蕃の子・逸や術士襄楷らとの謀議、太史の凶兆による諫言で靈帝の北巡が中止となり計画が破綻した経緯を詳しく伝える。
- 『魏書』が載せる太祖の拒絶の辞は、伊尹・霍光の廃立の故事を引き、当時の情勢が古の成功例とは異なる(幼主は微弱だが謀反の口実となる失政がなく、諸君の団結も七国の乱ほどでなく、合肥侯の貴も呉楚に及ばない)として、無謀な挙兵を戒めるものであった。
中平六年(189年)――董卓の乱と挙兵
- 金城の邊章・韓遂が刺史・郡守を殺して叛き、その衆十余万に天下は騒然となった。太祖は典軍校尉に徵された。
- 靈帝が崩じ太子が即位、太后が臨朝すると、大將軍何進は袁紹と謀って宦官誅滅を図ったが太后は聴かず、何進は董卓を召して太后を脅そうとした。『魏書』によれば太祖はこれを笑い、「宦官の禍は罪ある者だけを誅すればよく、獄吏一人で足りるのに、なぜ外将を召し寄せるのか。事は必ず漏れ、失敗するだろう」と評したという。案の定、董卓が到着する前に何進は殺された。
- 董卓が入京すると少帝を廃して弘農王とし献帝を立て、京都は大いに乱れた。董卓は太祖を驍騎校尉に表し謀議に加えようとしたが、太祖は応じず姓名を変えて東へ逃れた。『魏書』は、太祖が董卓の必敗を見越して赴任を拒み郷里へ逃げたと伝える。
- 逃避行の途中、成臯で旧知の呂伯奢を訪ねた際の事件には諸説がある。『魏書』は、伯奢不在の中、その子らが賓客とともに太祖を襲い馬や物を奪おうとしたため、太祖が自ら斬って数人を殺したとする。『世語』は、伯奢の五子が賓主の礼を尽くしたにもかかわらず、太祖が卓に背いた身を疑われたと思い込み夜のうちに八人を殺して去ったとする。孫盛『雜記』は、食器の音を謀反の兆しと誤認して一家を殺し、去り際に「われ人に背くとも、人にわれに背かせぬ」と述べたと伝える。
- 中牟を過ぎた際、亭長に怪しまれて拘束されたが、県の功曹に見抜かれつつも世が乱れていることを理由に釈放された。
- 董卓はその後太后と弘農王を殺害した。太祖は陳留に至り家財を散じて義兵を集め、卓討伐を志した。冬十二月、己吾で挙兵。陳留の孝廉衞茲の資財援助を得て衆五千を得たという。
初平元年(190年)――反董卓連合
- 初平元年春正月、後將軍袁術、冀州牧韓馥、豫州刺史孔伷、兖州刺史劉岱、河內太守王匡、勃海太守袁紹、陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、山陽太守袁遺、濟北相鮑信らが同時に挙兵し、各々数万の兵を率いて袁紹を盟主に推した。太祖は奮武將軍を代行した。
- 二月、董卓は天子を長安に遷し、洛陽の宮室を焼いた。諸軍は各地に駐屯するのみで(袁紹は河內、張邈・劉岱・橋瑁・袁遺は酸棗、袁術は南陽、孔伷は潁川、韓馥は鄴)、董卓軍の強さを恐れて誰も進撃しなかった。太祖は「義兵を挙げて暴乱を誅するのに何を疑うか。今こそ天が卓を滅ぼす好機」と説き、自ら兵を引いて西進し成臯を取ろうとした。張邈は衞茲に兵を分けて従わせた。滎陽の汴水で董卓の将徐榮と遭遇し敗れ、多くの死傷者を出した。太祖自身も流れ矢を受け、乗馬も傷を負ったが、従弟の曹洪が自分の馬を譲って夜に脱出させた。徐榮も太祖軍の少なさから酸棗攻略を難しいと判断し兵を引いた。
- 太祖が酸棗に戻ると、諸軍十余万は連日酒宴に耽り進撃の意志がなかった。太祖はこれを責め、勃海の兵で孟津を臨ませ、酸棗諸将は成臯・敖倉・轘轅・太谷を扼して守り、袁術は南陽の軍で丹・析から武関に入り三輔を震わすという戦略を献じたが、張邈らは用いなかった。
- 太祖は兵が少なく、夏侯惇らと揚州へ募兵に赴き、刺史陳溫・丹楊太守周昕から兵四千余を得た。しかし龍亢に戻る途中で兵の多くが叛いた。『魏書』は、夜に太祖の陣が焼かれ、太祖自ら剣を振るって数十人を斬り脱出し、叛かずに残ったのは五百余人だったと伝える。銍・建平でさらに兵千余を得て河內に進んだ。
- 劉岱と橋瑁が不和になり、劉岱は橋瑁を殺して王肱に東郡太守を代行させた。
- 袁紹と韓馥は幽州牧劉虞を帝に立てようと謀ったが、太祖はこれを拒んだ。
初平二年(191年)
- 春、紹・馥はなお劉虞を帝に立てようとしたが、劉虞は最後まで受けなかった。
- 夏四月、董卓は長安に還った。
- 秋七月、袁紹は韓馥を脅して冀州を奪った。
- 黑山の賊、于毒・白繞・眭固ら十余万が魏郡・東郡を侵し、王肱が防ぎきれなかったため、太祖は東郡に入り濮陽で白繞を撃破した。袁紹はこれにより太祖を東郡太守に表し、太祖は東武陽を治所とした。
初平三年(192年)
- 春、太祖は頓丘に軍し、于毒らが東武陽を攻めると、逆に兵を西の山中に入れて毒らの本拠を攻めた。諸将は救援に戻るべきと主張したが、太祖は孫臏・耿弇の故事を引いて敵を釣り出す策を説き、案の定、毒は武陽を捨てて撤退した。太祖はさらに眭固を撃ち、南匈奴の於夫羅を內黃で撃破した。『魏書』は於夫羅が南單于の子で、中平年間に本国が反乱し南單于が殺されたため中国に留まり、天下の混乱に乗じて西河の白波賊と合流し太原・河內を侵していたと伝える。
- 夏四月、司徒王允は呂布とともに董卓を殺した。董卓の将李傕・郭汜らは王允を殺し呂布を攻め、布は敗れて武関から東へ出た。李傕らが朝政を専らにした。
- 青州黃巾百万余が兖州に侵入し、任城相鄭遂を殺して東平に転じた。劉岱は鮑信の持久策の諫めを聞かず戦って敗死した。『世語』によれば陳宮が劉岱死後の混乱に乗じ太祖を兖州牧に迎えるべきと説き、鮑信らもこれに同意して太祖を迎えた。太祖は壽張の東で黃巾軍を撃ち、鮑信は力戦して戦死した。『魏書』は当初戦況が不利で太祖の旧兵が少なく新兵も未熟で全軍が恐れたが、太祖自ら甲冑をつけ将士を巡って士気を鼓舞し、賊の檄文(「昔濟南で神壇を壊した貴殿は道を知りながら今また迷っている」との文言)に応酬しつつ奇策を用いて撃破したと伝える。鮑信の遺骸は見つからず木像を刻んで弔った。冬、黃巾は降り、降卒三十余万、男女百余万口を得て、精鋭を選び青州兵と号した。
- 袁術は袁紹と不和になり公孫瓚に援を求め、瓚は劉備・単経・陶謙らに紹を圧迫させたが、太祖は紹と共にこれを撃破した。
初平四年(193年)
- 春、太祖は鄄城に軍した。荊州牧劉表が袁術の糧道を断つと、術は陳留に入り封丘に屯し、太祖は将劉詳を攻め、救援に来た術軍も大破した。術は封丘を捨てて逃げ、太祖は追撃して渠水で城を灌ぎ、術は最終的に九江まで走った。夏、太祖は定陶に還軍した。
- 下邳の闕宣が数千人を集め自ら天子を称し、徐州牧陶謙がこれと結んで挙兵した。秋、太祖は陶謙を征し十余城を落としたが、謙は城を守って出なかった。
- この年、孫策は袁術の命で長江を渡り、数年のうちに江東を領有した。
興平元年(194年)
- 春、太祖は徐州から兵を還した。かつて父曹嵩は董卓の乱を避け琅邪に難を逃れていたが、陶謙の部将に殺されていた。太祖は父の仇を報じるべく東征を志す。『世語』は、陶謙が密かに数千騎を送って嵩一家を襲い、弟の曹德を殺し、嵩は逃げる途中に厠に隠れ愛妾とともに殺され一家全滅した経緯を伝える。韋曜『吳書』は別に、陶謙が護送の都尉張闓に嵩を殺させ財物を奪わせたとする異説を載せる。太祖はこの件を陶謙の咎として討伐した。
- 夏、荀彧・程昱に鄄城を守らせ再び陶謙を征し、五城を落として東海まで攻め入った。郯を経る際、陶謙の将曹豹と劉備が郯の東に屯して迎え撃ったがこれを破り、襄賁を落として多くを殺戮した。孫盛はこの残虐を「罪ある陶謙一人を討つべきところ、その配下まで殘殺したのは行き過ぎ」と批判している。
興平元年(194年)――呂布の叛乱
- 張邈が陳宮とともに叛き呂布を迎え入れると、郡県はこぞって呼応した。荀彧・程昱は鄄城・範・東阿の二県を固守し、太祖は軍を引き返した。呂布は鄄城を攻めたが落とせず西の濮陽に屯した。太祖は「布は一州を得ながら要害を扼せず濮陽に屯するとは無能の証」と評し進軍した。呂布は騎兵で青州兵を突き崩し、太祖軍は乱れて馬から落ち左手を火傷したが、司馬樓異に助けられて脱出した。『獻帝春秋』は濮陽の豪族田氏の内応で入城できたこと、布騎が太祖と気づかず取り逃がした逸話(「曹操はどこか」「黃馬に乗って走る者がそれだ」と欺いた)を伝える。両軍は百余日対峙したが、蝗害と食糧欠乏によりそれぞれ兵を引いた。
興平元年(194年、続)
- 秋九月、太祖は鄄城に還った。呂布は乘氏で敗れ山陽に東屯した。袁紹が和を結ぼうと使者を送り、太祖は兖州を失い軍糧も尽きていたため一時応じかけたが、程昱の諫めで思いとどまった。冬十月、太祖は東阿に至った。
- この年、穀価は一斛五十余万銭に高騰し人が人を食う惨状となり、新募の吏兵は解散させられた。陶謙が死に、劉備が後を継いだ。
興平二年(195年)
- 春、太祖は定陶を襲い、濟陰太守吳資を破り、駆けつけた呂布も撃破した。夏、呂布の将薛蘭・李封を鉅野で破り、東緍で呂布・陳宮の万余の軍を伏兵で大破した。『魏書』は、兵の多くが麦を刈りに出て守備が手薄な中、太祖が婦人に城壁を守らせて呂布を欺き、隄の伏兵で挟撃した経緯を詳しく伝える。呂布は夜逃げし、太祖は定陶を落として諸県を平定した。呂布は劉備の元へ、張邈も呂布に従い、弟の張超が雍丘で一族を守った。秋八月、雍丘を包囲。冬十月、天子は太祖を兖州牧に任じた。十二月、雍丘は陥落し張超は自殺、張邈の三族は誅された。張邈自身は袁術に救援を求めたが配下に殺され、兖州は平定された。太祖は東の陳国方面へ略地を進めた。
- この年、長安が乱れ、天子は東遷して曹陽で敗れ、河を渡って安邑に難を避けた。
建安元年(196年)――天子の迎奉と屯田
- 春正月、太祖は武平に軍し、袁術配下の陳相袁嗣が降った。
- 太祖は天子を迎えようとし、荀彧・程昱の勧めで曹洪を西に遣わしたが、衞將軍董承と袁術配下の萇奴が険を拠って阻んだため進めなかった。
- 汝南・潁川の黃巾、何儀・劉辟・黃邵・何曼らが各数万を擁し当初袁術・孫堅に応じていたが、二月に太祖が討破して劉辟・黃邵らを斬り、何儀らは降った。天子は太祖を建德將軍に任じ、夏六月には鎮東將軍・費亭侯とした。秋七月、楊奉・韓暹が天子を奉じて洛陽に戻すと、太祖は洛陽に至って京都を衞り、韓暹は逃走した。天子は太祖に節鉞を仮し尚書事を録させた。洛陽が荒廃していたため董昭らの勧めで許に遷都し、九月、太祖は大將軍・武平侯となった。天子の西遷以来乱れていた朝廷の制度が、ここに至って初めて整った。
- この年、棗祗・韓浩の議により屯田を開始した。『魏書』は、戦乱で兵糧が窮乏し諸軍が略奪と離散を繰り返す中、太祖が「国を定める術は強兵足食にあり」として許下で募民屯田を行い穀百万斛を得たこと、以後諸郡に田官が置かれ征伐に糧運の労なく群賊を平らげ天下を平定できた経緯を伝える。
- 呂布が劉備を襲い下邳を奪うと、備は太祖の元へ逃れた。程昱は「劉備には人心を得る雄才があり、いずれ人の下にはつかない、早く除くべき」と勧めたが、太祖は「今は英雄を集める時。一人を殺して天下の人心を失うわけにいかない」と用いなかった。
- 張濟は關中から南陽へ逃れて死に、甥の張繡がその軍を継いだ。
建安二年(197年)
- 春正月、太祖は宛に至り、張繡は一度降ったが間もなく反した。戦いに敗れ、太祖自身も流れ矢を受け、長子の曹昂と甥の曹安民が戦死した。『魏書』は太祖の乗馬「絕影」が矢を受け、太祖も頬と右腕を負傷したと伝える。『世語』は、曹昂が馬に乗れず自らの馬を太祖に譲って身代わりに死んだとする。太祖は舞陰へ退き、追撃してきた張繡の騎兵を撃破した。張繡は穰へ逃れ劉表と結んだ。太祖は諸将に「張繡らを降した時に人質を取らなかった失策がこの結果を招いた。以後は敗れぬ」と語り、許に戻った。
- 袁術は淮南で帝を称そうとし呂布に告げたが、布は使者を捕らえ書を天子に上げた。術は怒って呂布を攻めたが逆に破られた。秋九月、術は陳を侵し、太祖はこれを東征した。術は自ら来ると聞いて軍を捨てて逃げ、残した将橋蕤・李豐・梁綱・樂就は太祖に討たれ斬られた。術は淮を渡って逃げた。太祖は許に還った。
- 太祖が舞陰から戻った後、南陽・章陵の諸県が再び張繡に応じて叛き、太祖は曹洪を遣わしたが不利で葉に屯した。冬十一月、太祖自ら南征して宛に至り、劉表配下の鄧濟が拠る湖陽を落として生け捕り、舞陰も降した。
建安三年(198年)
- 春正月、太祖は許に還り、初めて軍師祭酒を置いた。三月、張繡を穰に包囲。夏五月、劉表が繡を救援して太祖軍の後背を断とうとしたが、袁紹配下の裏切りの情報(田豐が紹に許への奇襲を進言した由)を得て太祖は囲みを解いた。撤退中に繡・表連合軍に追撃されたが、太祖は安衆で険を利用して夜に地道を掘り輜重を通し伏兵で挟撃、大破した。荀彧への書で「賊が追ってくれば必ず安衆で破る」と予告した通りとなった。秋七月、許に還った。
- 呂布が再び袁術配下の高順に命じて劉備を攻めさせ、太祖は夏侯惇を救援に送ったが不利であった。九月、太祖は東征して彭城を屠り相の侯諧を捕らえ、下邳に進んで呂布自身の騎兵を撃破し驍將成廉を捕らえた。呂布は降伏を試みたが陳宮らに止められ、戦いは長引き、太祖は泗水・沂水を決して城を水攻めにした。呂布の将宋憲・魏續らが陳宮を捕らえ開城降伏、呂布・陳宮ともに処刑された。太山の臧霸・孫觀・吳敦・尹禮・昌狶らも呂布に従っていたが降り、太祖は厚遇して青州・徐州の沿海部を委ねた。
- かつて太祖が兖州牧だった頃、東平の畢諶を別駕としていたが、張邈の叛乱時に諶の母弟妻子が人質に取られた。太祖は諶を去らせたが、諶は二心なきを誓いつつも結局逃亡した。呂布敗北後に諶が捕らえられると、周囲はその処罰を恐れたが、太祖は「親に孝な者は君にも忠であろう」として魯相に任じた。『魏書』は、袁紹が楊彪・孔融らを陥れようとした際、太祖が高祖の雍齒赦免の故事を引いて拒んだ逸話も伝える(裴松之は、楊彪も後に太祖に苦しめられ孔融は結局誅殺されたと付記する)。
建安四年(199年)
- 春二月、太祖は昌邑に還った。張楊の部将楊醜が楊を殺し、眭固がまた楊醜を殺してその衆を袁紹に属させ射犬に屯した。夏四月、太祖は進軍して史渙・曹仁に河を渡らせ攻撃、眭固は斬られた。太祖自ら河を渡って射犬を囲むと、薛洪・繆尚は降伏した。魏种を河內太守とした(种はかつて兖州の乱で太祖を見限って逃げたが、後に生け捕られた際、太祖はその才を惜しんで縛を解き用いた)。
- 袁紹は公孫瓚を併合し四州を領し十余万の兵で許を攻めようとしていた。諸将が対抗困難と見る中、太祖は「紹は志は大きいが智に乏しく、色は厳しいが胆は薄く、兵は多いが指揮系統が乱れている」と分析した。秋八月、黎陽に進軍し臧霸らを青州に入れて齊・北海・東安を破らせ、于禁を河上に屯させた。九月、許に還り官渡に分兵。冬十一月、張繡が衆を率いて降り列侯に封ぜられた。十二月、太祖は官渡に軍した。
- 袁術は敗れて困窮し、甥の袁譚に迎えを求めた。太祖は劉備・朱靈を送って阻もうとしたが、術は途中で病死した。程昱・郭嘉は劉備を放ったことを危惧し、太祖も後悔したが及ばなかった。劉備は密かに董承らと謀反を図り、徐州刺史車冑を殺して沛に屯した。太祖は劉岱・王忠を遣わしたが討ちきれなかった。
- 廬江太守劉勳が衆を率いて降り、列侯に封ぜられた。
建安五年(200年)――官渡の戦い
- 春正月、董承らの謀反が発覚し誅殺された。太祖は自ら劉備を東征しようとした。諸将は「袁紹こそ天下を争う相手なのに、それを捨てて東に向かうのは危険」と諫めたが、太祖は「劉備は人傑、今討たねば必ず後患となる」として東進、劉備を破って将夏侯博を捕らえた。備は袁紹の元へ逃げ、その妻子は捕らえられた。関羽は下邳で降伏。備に呼応した昌狶も撃破した。太祖は官渡に戻り、袁紹は結局出兵しなかった。
- 二月、袁紹は郭圖・淳于瓊・顏良を白馬の東郡太守劉延攻撃に送り、自らも黎陽から渡河しようとした。夏四月、太祖は延津を渡る動きで紹を欺きつつ、軽兵で白馬を急襲、張遼・関羽を先鋒に顏良を斬った。白馬の民を移し河沿いに西進すると、紹軍が延津南で追撃してきた。太祖は輜重で敵を誘い、少数の騎兵で反撃して紹の将文醜を斬った。顏良・文醜はともに袁紹の名将であり、これを失って紹軍は大いに動揺した。太祖は官渡に戻り、紹は陽武に進んだ。関羽はこの間に劉備の元へ逃げ帰った。
- 八月、紹は数十里に及ぶ長い陣を構え、太祖もこれに対応して陣を張ったが緒戦は不利であった。当時太祖軍は一万に満たず、傷者も一割強に及んでいたという(裴松之は本紀の「袁紹十余万」との記述との整合性を検討し、実数はもっと多かったのではと考証している)。糧秣が乏しくなり太祖は撤退も考えたが、荀彧は「弱をもって強に当たる今こそ天下の帰趨を決める機、紹は人を集めても用いられぬ布衣の雄に過ぎぬ」と諫めて翻意させた。
- 孫策が太祖と紹の対峙に乗じて許を襲おうとしたが、実行前に刺客に殺された。
- 汝南の降賊劉辟らが紹に呼応して叛き許の近郊を侵したが、太祖は曹仁に劉備・劉辟を撃破させた。
- 冬十月、紹が運穀車数千を送ると、太祖は荀攸の策で徐晃・史渙に襲わせ焼き払った。紹の謀臣許攸が財に飽かず紹の元を去り太祖に降ると、淳于瓊らが守る糧秣拠点烏巢の情報を献じた。太祖は自ら精鋭五千を率いて夜襲、淳于瓊らを大破しその糧穀・財宝をことごとく焼き、督将眭元進・韓莒子・呂威璜・趙叡らを斬った。紹配下の張郃・高覽は淳于瓊敗北を聞いて降り、紹軍は総崩れとなって紹・譚は軍を捨て河を渡って逃げた。太祖は輜重・図書・珍宝をすべて収め、斬首は七万余級に及んだ(『獻帝起居注』は太祖の上言として、紹がかつて劉虞擁立や僭称の企てに加担していたことを詳しく糾弾する)。
- 桓帝の代、黃星が現れた際、遼東の殷馗は「五十年後に梁・沛の間から真人が起こる」と予言していたといい、この年ちょうど五十年に当たり、太祖が紹を破って天下に敵なしとなった。
建安六年(201年)
- 夏四月、太祖は河上で兵を揚げ袁紹の倉亭軍を破った。紹は敗残兵を集めて叛乱郡県の平定にあたった。九月、太祖は許に還った。紹はなお劉備を汝南に送り、汝南の賊共都らがこれに応じたが、太祖自ら南征すると劉備は劉表の元へ逃げ、共都らも散った。
建安七年(202年)
- 春正月、太祖は譙に軍し、義兵を挙げてより戦死した将士の子孫を優遇する令を出し(「上田を授け、官が耕牛を給し、学師を置いて教育し、廟を立てて先人を祀らせる」)、浚儀に至って睢陽渠を整備し、太牢をもって橋玄を祀った。祭文では橋玄の恩義への感謝が長く述べられている。軍は官渡に進んだ。
- 袁紹は軍が破れて以来、血を吐く病にかかり夏五月に死んだ。末子の袁尚が跡を継ぎ、兄の袁譚は自ら車騎將軍と号して黎陽に屯した。秋九月、太祖はこれを征し連戦、譚・尚は敗退して固守した。
建安八年(203年)
- 春三月、その外郭を攻めて出撃した敵を大破し、譚・尚は夜のうちに逃げた。夏四月、鄴に進軍。五月に許へ還り、賈信を黎陽に残した。
- 己酉の令:『司馬法』の「将軍死綏」の原則に従い、敗軍・失利の責任を将個人に帰すこととし、以後は敗軍者を罪に問い失利者を免官とする方針を定めた。
- 秋七月の令:喪乱以来十五年、若い世代が仁義礼譲を知らないことを憂い、郡国に文学を興し五百戸以上の県に校官を置いて教育させることとした。
- 八月、太祖は劉表を征し西平に軍した。太祖が鄴を離れた隙に袁譚・袁尚が冀州を争い、譚は尚に敗れて平原に籠り、尚の攻撃が激しくなったため辛毗を送って降伏を乞い救援を求めた。諸将は疑ったが荀攸の勧めで太祖は許した。太祖は「呂布討伐や官渡の戦いで劉表が動かなかったのは自守の賊に過ぎぬからで、後で図ればよい。譚・尚は互いに争わせ、尚を破ればその地は自ずと手に入る」と述べたという。冬十月、黎陽に至り、子の曹整と袁譚の娘を結婚させた(裴松之は、これが紹の喪から間もない中での婚礼の礼にもとる点を指摘する)。尚は太祖の北上を聞いて平原の囲みを解き鄴へ戻った。東平の呂曠・呂翔が尚に叛いて陽平に屯し、太祖に降って列侯に封ぜられた。
建安九年(204年)――鄴の平定
- 春正月、太祖は河を渡り淇水を白溝に引いて糧道を通した。二月、尚が再び譚を攻め、蘇由・審配に鄴を守らせている隙に、太祖は洹水に進軍し蘇由が降った。鄴を包囲し土山・地道を築いた。夏四月、曹洪に鄴攻めを任せ、太祖自ら武安長尹楷を撃破。さらに沮鵠(沮授の子)が守る邯鄲を落とし、易陽令韓範・涉県長梁岐も降った。五月、土山・地道を壊して包囲壕を築き、漳水を決して城を灌ぎ、城内では餓死者が半数を超えた。秋七月、尚が救援に戻ったが、太祖は「大道を来れば避けるべきだが、西山沿いに来れば必ず捕らえられる」と予想し、案の定尚は西山沿いに来て破れ、中山へ逃げた。輜重や尚の印綬・節鉞をすべて得た。八月、審配の甥・審榮が夜に守っていた鄴城東門を開いて太祖軍を引き入れ、審配は生け捕られて斬られ、鄴は平定された。
- 太祖は袁紹の墓に自ら祀りを捧げ涙を流し、紹の妻を慰問して家財を返し衣類食糧を給した。孫盛は、逆臣の墓に哀悼を尽くすのは政道に外れると批判している。
- かつて紹と共に挙兵した頃、紹が「南に河を拠り北は燕・代を阻み戎狄を率いて天下を争えば済むだろう」と方針を語ったのに対し、太祖は「天下の智力を用い、道をもってこれを制すれば、なしえぬことはない」と答えたという。
- 九月の令:河北は袁氏の禍に苦しんだとして今年の租賦を免除し、豪強の兼併を重く罰する法を定めた。『魏書』によれば、田租は畝ごとに四升、戸ごとに絹二匹・綿二斤とし、それ以外の擅な徴発を禁じた。天子は太祖を冀州牧に任じたが、太祖は兖州牧を返上した。
建安九〜十年(204〜205年)――袁譚の討滅
- 太祖が鄴を囲んでいる間、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略した。尚は敗れて中山に戻ったが譚に攻められ故安の袁熙のもとへ逃げてその衆を併せた。太祖は約束違反(曹整との婚姻)を責める書を送り、娘を返させて絶縁のうえ進軍した。譚は恐れて平原を捨て南皮に籠った。十二月、太祖は平原に入り諸県を平定した。
建安十年(205年)
- 春正月、譚を攻めて破り、譚を斬り、その妻子も誅した。冀州平定。旧袁氏配下との和解の令を出し、私的な報復を禁じ厚葬を禁じて法の統一を図った。同じ月、袁熙の将焦觸・張南らが叛いて熙・尚を攻め、熙・尚は三郡烏丸へ逃げ、觸らは降って列侯に封ぜられた。
- 夏四月、黑山賊張燕がその衆十余万を率いて降り列侯に封ぜられた。故安の趙犢・霍奴らが幽州刺史・涿郡太守を殺した。三郡烏丸が鮮于輔を獷平で攻めた。秋八月、太祖はこれを征して趙犢らを斬り、獷平を救援すると烏丸は塞外へ逃げた。
- 九月の令:冀州の風俗、父子が徒党を組んで互いに誹謗しあう悪習を、直不疑・第五伯魚・王鳳と谷永・王商と張匡らの故事を引きつつ戒め、正すことを求めた。冬十月、太祖は鄴に還った。
建安十一年(206年)
- かつて袁紹の甥・高幹は并州牧として太祖に降っていたが、太祖の烏丸征討を聞いて州を挙げて叛き、上党太守を捕らえ壺関口を守った。太祖は樂進・李典を遣わし、幹は壺関城に籠った。春正月、太祖自ら幹を征すると、幹は別将に城を守らせ匈奴に逃げて救援を求めたが単于に拒まれた。太祖は壺関を三月にわたって包囲し陥落させ、幹は荊州へ逃げる途中で上洛都尉王琰に討たれた。
- 秋八月、太祖は東の海賊管承を淳于で征し、樂進・李典に破らせた。承は海島へ逃げた。東海の襄賁・郯・戚を割いて琅邪に加え、昌慮郡を廃止した。『魏書』が載せる十月乙亥の令では、掾属治中・別駕に月ごとに太祖の失政を直言させることとした。
建安十一〜十二年(206〜207年)――北征の準備
- 三郡烏丸は天下の乱に乗じて幽州を破り漢民十余万戸を有するに至り、遼西単于蹋頓が最も強く袁尚兄弟を庇護してたびたび塞内を侵していた。太祖は北征を決意し、呼沲から泒水に至る平虜渠、泃河から潞河に至る泉州渠を鑿って糧運の便を通した。
建安十二年(207年)――白狼山の戦い
- 春二月、太祖は淳于から鄴に還った。丁酉の令で、天下平定は賢士大夫の力によるとして功臣二十余人を列侯に封じ、その他も次第に応じて封じた。
- 北の三郡烏丸征討には諸将から反対の声が多かった(劉備が劉表を動かし許を襲う恐れ)が、郭嘉のみは劉表がその才を用いまいと見て出征を勧めた。夏五月、無終に至る。秋七月、大水で沿海の道が塞がれたため、田疇を道案内とし盧龍塞から山谷を切り開いて五百里余を進み、白檀・平岡・鮮卑庭を経て柳城に向かった。八月、白狼山で敵と遭遇。太祖は敵陣の乱れを見て張遼を先鋒に総攻撃し、蹋頓と諸名王を斬り、胡漢の降者二十余万口を得た。袁尚・袁熙は遼東の公孫康の元へ逃げた。
- 九月、柳城から兵を引き上げる際は寒さと乾燥で二百里にわたり水がなく、馬数千匹を食糧とし三十丈余りも掘って水を得るほどの苦難だったという。帰還後、事前の反対意見を出した者を厚く賞し、「危険を冒しての勝利は常態化できない。諸君の諫言は万全の策であり、以後も遠慮なく言ってほしい」と述べた。公孫康は予想通り袁尚・袁熙・速僕丸らを斬り首を送ってきた(太祖は「急いで攻めれば力を合わせるが、緩めれば互いに図りあう」と予測していたという)。十一月、易水に至り、代郡・上郡の烏丸諸単于が来朝した。
建安十三年(208年)――丞相就任と赤壁
- 春正月、太祖は鄴に還り、玄武池を作って水軍を訓練した。漢は三公官を廃し丞相・御史大夫を置いた。夏六月、太祖は丞相となった。
- 秋七月、太祖は南に劉表を征した。八月、劉表が卒し子の劉琮が跡を継ぎ襄陽に屯、劉備は樊に屯していた。九月、太祖が新野に至ると劉琮は降り、劉備は夏口へ逃げた。太祖は江陵に進軍し、荊州の降臣に恩賞を与えて十五人を侯に封じ、劉表の旧将文聘を江夏太守として本兵を統べさせ、荊州の名士韓嵩・鄧義らを登用した。
- 十二月、孫権が劉備のために合肥を攻めると、太祖は江陵から劉備を追い巴丘に至り、張憙を合肥救援に送った。孫権はこれを聞いて退いた。太祖は赤壁に至り劉備と戦って不利となり、加えて疫病が広がり多数の死者を出したため軍を引いた。劉備はこうして荊州・江南諸郡を領有するに至った。『山陽公載記』は太祖の船が劉備に焼かれ華容道を歩いて撤退した苦難(泥濘の中、疲弊した兵を犠牲に道を作らせた)を伝え、太祖が「劉備は好敵手だ、火を放つのがもう少し早ければわが軍は全滅していた」と語ったという逸話を載せるが、裴松之は諸書の記述順序(孫権の合肥攻めと赤壁の先後関係)に食い違いがあると指摘する。
建安十四年(209年)
- 春三月、譙に軍し軽舟を作り水軍を訓練した。秋七月、渦水から淮水に入り肥水に出て合肥に軍した。辛未の令:疫病等で戦死・行方不明となった将士の遺族を扶助することとした。揚州の郡県長吏を配置し芍陂で屯田を開いた。十二月、譙へ還軍した。
建安十五年(210年)――求賢令
- 春、下令:古の名君も市井から賢者を得た故事を引き、「孟公綽は趙・魏の家老としては優れているが滕・薛の大夫にはなれない」「桓公の覇業も廉士のみを求めていたら成らなかった」等と述べ、人材を出自にこだわらず登用する「唯才是挙」の方針を示した。冬、銅爵臺を築いた。
- 十二月己亥の令(いわゆる「述志令」):太祖は自らの生涯を長く振り返った。若くして無名の頃から誠実に済南相を務め排斥された経緯、いったん郷里に退いて読書と狩猟の日々を送り「征西將軍曹侯之墓」と刻まれることだけを望んでいたこと、董卓の乱に義兵を挙げて以後は勢力拡大を過度に求めず、兖州で黃巾三十万を降し袁術・袁紹・劉表を次々平定して天下を治めるに至った経緯を述べる。自らが天下に果たした役割の大きさを率直に語りつつ、樂毅・蒙恬の忠義の故事を引いて、兵権を手放して封国に退けば身を滅ぼしかねないとし、先に賜った三子の封を辞退していたのを改め受けることとし、逆に陽夏・柘・苦の三県二万戸は返上して食邑を武平一万戸に留め、世評をやわらげる意向を述べた。
建安十六年(211年)――潼関の戦い
- 春正月、天子は減じた戸五千を辞退分の三県一万五千戸に充てて太祖の三子(曹植を平原侯、曹據を范陽侯、曹豹を饒陽侯)に各五千戸ずつ封じた。天子は世子曹丕を五官中郎將とし、丞相の副とした。太原の商曜らが大陵で叛き、夏侯淵・徐晃が討ち破った。張魯が漢中に拠っていたため、三月に鍾繇を遣わして討たせ、夏侯淵らを河東で合流させた。
- 関中の諸将は鍾繇の意図を疑い、馬超・韓遂・楊秋・李堪・成宜らが叛いた。太祖は曹仁に討伐させたが、超らは潼関に屯した。太祖は「関西の兵は精悍、堅く守って戦うな」と諸将に命じ、秋七月、自ら西征した。徐晃・朱靈に密かに蒲阪津を渡らせ河西に陣を築かせる一方、自らは潼関から北へ渡ろうとして馬超軍に急襲され、校尉丁斐が牛馬を放って敵の気をそらす機転で辛くも渡り切った。『曹瞞傳』は、危急の際に太祖が泰然と胡床に座り続け、張郃らに促されてようやく船に乗った逸話を伝える。
- 九月、渭水を渡り、寒さを利用して砂で城壁を築き水をかけて凍らせる計(婁子伯の献策)で陣地を固めた。韓遂とは旧知の縁があり面談したが軍事の話はせず、馬超らはこれを怪しんだ。太祖はさらに書を偽って改竄したように見せかけて馬超と韓遂を離間させ、決戦を仕掛けて成宜・李堪らを斬った。韓遂・馬超は涼州へ、楊秋は安定へ逃れ、関中は平定された。太祖は事後、諸将に自らの用兵(潼関で敵の目を引きつけつつ西河を確保した経緯、敵が続々集結したのを見て逆に喜んだ理由――各々が服さぬ寄せ集めゆえ一挙に滅ぼせるから)を語った。
建安十六年(211年、続)
- 冬十月、太祖は長安から北の楊秋を征し安定を包囲、秋は降ってその爵位を回復された。十二月、安定から還り、夏侯淵を長安に残した。
建安十七年(212年)
- 春正月、太祖は鄴に還った。天子は太祖に対し、拝謁時に姓名を呼ばれない、朝廷で小走りしない、剣を帯び履のまま昇殿するという蕭何と同様の礼遇を命じた。馬超の残党梁興らが藍田に屯していたが、夏侯淵が討ち平らげた。河内・東郡・鉅鹿・広平・趙の諸県を割いて魏郡に加えた。
- 冬十月、太祖は孫権を征した。
建安十八年(213年)――魏公即位
- 春正月、濡須口に進軍し孫権の江西営を破り、都督公孫陽を捕らえて引き上げた。詔により十四州を九州に統合した。夏四月、鄴に至った。
- 五月丙申、天子は御史大夫郗慮を遣わし太祖を魏公に策命した。冊文は董卓討伐以来の功績(黃巾平定、韓暹・楊奉討伐、袁術撃破、呂布・張楊・眭固・張繡の討滅、官渡の戦いでの袁紹撃破、四州平定、袁譚・高幹討滅、三郡烏丸平定と袁尚討滅、劉表帰順、馬超・韓遂平定、鮮卑・丁零の朝貢)を長く列挙し、周成王が召公・晋文公を封じた故事に倣い、冀州の河東・河內・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原の十郡をもって魏公に封じ、九錫(大輅・戎輅、衮冕の服、軒縣の樂、朱戶、納陛、虎賁三百人、鈇鉞、彤弓彤矢・玈弓玈矢、秬鬯・珪瓚)を加え、丞相以下の百官を漢初の諸侯王同様に置くことを命じた。
- 太祖は再三辞退したが、中軍師王凌、謝亭侯荀攸、鍾繇、涼茂、毛玠、夏侯惇、曹洪、程昱、賈詡、董昭ら多くの重臣が連名で勧進し、周公・呂望・張耳・呉芮の故事を引いて受諾を促した。太祖は当初魏郡のみを受けたが、重ねての勧進により十郡の封と九錫をすべて受けた。『魏略』は太祖の謝表として、董卓の乱以来の労苦と天恩への感謝、辞退したい思いと詔命の厳しさとの間で苦慮した心情を伝える。
建安十八年(213年、続)
- 秋七月、魏の社稷宗廟を建て始めた。天子は太祖の三女を貴人として娉した。九月、金虎臺を築き渠を鑿って漳水を白溝に引いて黄河に通した。冬十月、魏郡を東西に分け都尉を置いた。十一月、初めて尚書・侍中・六卿を置いた(荀攸を尚書令、涼茂を僕射とするなど)。
- 馬超は漢陽で羌・胡と結んで再び叛き、氐王千萬もこれに応じて興国に屯したため、太祖は夏侯淵を遣わして討たせた。
建安十九年(214年)
- 春正月、初めて籍田を耕した。南安の趙衢、漢陽の尹奉らが馬超を討ち、その妻子を晒し首にすると、超は漢中へ逃げた。韓遂は金城から氐王千萬の部に入り、羌・胡万余騎と夏侯淵と戦って大破され西平へ逃げた。淵は諸将とともに興国を攻略しこれを屠った。安東・永陽郡を廃した。
- 安定太守毌丘興が赴任する際、太祖は「羌・胡が中国と通交したければ自ら人を寄越すはず。こちらから人を遣わせば、悪しき者に付け込まれ要求を吊り上げられる」と戒めた。案の定、興が遣わした校尉范陵が羌に自ら属国都尉になるよう画策させ、太祖は「予見できたのは聖ではなく、経験が多いだけだ」と述べた。
- 二月、天子は魏公宗廟で二貴人(太祖の娘)に印綬を授け、盛大な儀式のもと宮中に迎え入れた。
- 三月、天子は魏公の位を諸侯王の上に置き、金璽・赤紱・遠遊冠を改授した。
- 秋七月、太祖は孫権を征した。参軍傅幹は「文武を併せ用い、まず徳を先にして江東の呉・蜀を懐柔すべき」と諫めたが太祖は従わず、軍は成果なく終わった。
- 隴西の宋建は三十余年にわたり「河首平漢王」を自称し百官を置いていたが、夏侯淵に討たせ、冬十月に枹罕を屠って宋建を斬り、涼州を平定した。
- 太祖は合肥から還った。
- 十一月、漢の皇后伏氏がかつて父・伏完への書で董承誅殺への怨みを記していた件が発覚し、廃されて死に、一族も誅された。『曹瞞傳』は、太祖が華歆を遣わして皇后を捕らえさせた際、皇后が壁の中に隠れたのを引きずり出され、献帝に「もう助けてもらえないのですか」と縋ったが「私も自分の命がいつまでか分からない」としか答えられなかった悲痛な場面を伝える。
- 十二月、太祖は孟津に至った。天子は太祖に旄頭の設置を命じ、宮殿に鐘虡を設けさせた。乙未の令:陳平・蘇秦の例を引き、行いに難があっても才があれば用いるべきと説いた。また軍中の裁判官に不適任者が多いことを憂い、法理に明るい者を選んで理曹掾属を置いた。
建安二十年(215年)――漢中平定
- 春正月、天子は太祖の次女を皇后に立てた。雲中・定襄・五原・朔方郡を統合し新興郡とした。
- 三月、太祖は張魯討伐のため西征し陳倉に至り、氐人が道を塞ぐのを張郃・朱靈が撃破した。夏四月、散関から河池に出て、険を恃んで服さぬ氐王竇茂の万余の衆を五月に攻め屠った。西平・金城の諸将麴演・蔣石らが韓遂を斬りその首を送った(韓遂は三十二年にわたり乱を続け七十余歳で死んだという)。秋七月、陽平に至り、張魯の弟張衞・楊昂らが陽平関で防いだが攻めきれず一度は撤退しかけたところ、賊の守備が緩んだ隙を突いて夜襲で大破、楊任を斬り、張衞らも夜逃げして張魯は巴中へ逃げた。太祖軍は南鄭に入り魯の府庫の珍宝をすべて手に入れた。巴・漢はことごとく降った。漢寧郡を漢中と改め、安陽・西城を分けて西城郡とし、錫・上庸に都尉を置いた。
- 八月、孫権が合肥を囲んだが張遼・李典が撃破した(逍遙津の戦い)。
- 九月、巴の七姓の夷王朴胡、賨邑侯杜濩が民を率いて帰順し、巴郡を分けて胡を巴東太守、濩を巴西太守として列侯に封じた。天子は太祖に、諸侯守相の任命を戦地で即断できる権限(承制封拜)を与えた。詔は後漢の鄧禹・来歙の故事を引き、賞罰は速やかであるべきとした。
- 冬十月、名号侯から五大夫までの新爵位を設け、従来の列侯・関内侯と合わせ六等の勲功爵とした。
- 十一月、張魯が巴中から残兵を率いて降り、魯とその五子はみな列侯に封ぜられた。劉備は劉璋を襲って益州を取り巴中を領したため、太祖は張郃を遣わして備えさせた。
- 十二月、太祖は南鄭から還り、夏侯淵を漢中に残した。侍中王粲はこの遠征を称える五言詩を作り、「相公は関右を征し、赫として天威を振るう。一挙に匈奴を滅ぼし、再挙に羌夷を服す」といった句で戦功を讃えた。
建安二十一年(216年)――魏王即位
- 春二月、太祖は鄴に還った。太廟で戦功を告げ、祭祀の作法(履を脱がず昇殿する、手ずから手を洗う、音楽が終わるまで座して待つ、神への供物を自ら捧げ持つ等)を自らの信念に基づき改めた。三月壬寅、自ら籍田を耕した。有司の奏により、四季ごとの講武を立秋の治兵に統合する制度改革が行われた。
- 夏五月、天子は太祖の爵を魏王に進めた。詔は太祖の功業を歴代の名臣に比しつつ賞典の不十分さを詫び、王位を進める旨を述べる。太祖は三度辞退したが許されなかった。
- 秋七月、匈奴の南単于呼廚泉が来朝、太祖は客礼をもって遇しつつ魏に留め、右賢王去卑にその国を監させた。八月、鍾繇を相国とし、初めて奉常・宗正の官を置いた。
建安二十一年(216年、続)
- 冬十月、治兵を行い太祖自ら金鼓を執って進退を指揮した。孫権を征するため十一月に譙に至った。
建安二十二年(217年)
- 春正月、太祖は居巢に軍した。二月、江西の郝谿に進軍。孫権は濡須口に城を築いて拒守したが、太祖が迫って攻めると権は退いた。三月、軍を引き、夏侯惇・曹仁・張遼らを居巢に残した。
- 夏四月、天子は太祖に天子の旌旗を用い出入りに警蹕を称することを命じた。五月、泮宮を作った。六月、華歆を御史大夫とした。秋八月の令:伊摯・傅説・管仲・蕭何・曹参・韓信・陳平・呉起らの出自にとらわれない登用の故事を引き、民間の埋もれた人材や汚名を負う才能ある者も遺漏なく推挙するよう求めた。冬十月、天子は太祖に十二旒の冕、金根車・六馬・五時副車を命じ、世子曹丕を魏太子とした。
- 劉備が張飛・馬超・呉蘭らを下辯に屯させ、太祖は曹洪を遣わして拒がせた。
建安二十三年(218年)
- 春正月、漢の太醫令吉本が少府耿紀、司直韋晃らと反し、許を攻めて丞相長史王必の営を焼いた。王必と潁川典農中郎將嚴匡がこれを討ち斬った。裴松之注は、京兆の金禕が漢臣としての矜持からこの謀反に加わった経緯や、王必が負傷し混乱の中でかろうじて生き延びたが十余日後に傷がもとで死んだ顛末を詳しく伝える。
- 曹洪は呉蘭を破りその将任夔らを斬った。三月、張飛・馬超は漢中へ逃げ、陰平の氐強端が呉蘭を斬りその首を送った。
- 夏四月、代郡・上谷の烏丸無臣氐らが叛き、鄢陵侯曹彰がこれを討破した。太祖の令:前年の疫病による困窮者(夫や子のない高齢の女性、父母兄弟のない幼児、視力や手足に障害があり養う者のない者等)へ終身の食糧支給を定めた。
- 六月の令:西門豹祠の西の高台に壽陵(自身の陵墓)を定め、封土も植樹も行わない質素な形とし、功績ある公卿大臣もその周囲に陪葬できるよう広く敷地を確保することとした。
- 秋七月、治兵し劉備を西征、九月に長安へ至った。
- 冬十月、宛の守将侯音らが叛き南陽太守を捕らえ、吏民を脅した末に宛に籠った。曹仁が樊城から宛を包囲した。
建安二十四年(219年)
- 春正月、曹仁は宛を屠り侯音を斬った。『曹瞞傳』は、南陽功曹の宗子卿が侯音を説得して太守を釈放させた上で夜に脱出し、住民とともに侯音を包囲、曹仁軍の到着とともに鎮圧した経緯を伝える。
- 夏侯淵は劉備と陽平で戦い戦死した。三月、太祖自ら長安から斜谷を出て遮要に軍し漢中に迫り陽平に至ったが、劉備は険を恃んで守りを固めた。『九州春秋』は、太祖が撤退を決めた際に「雞肋」とだけ令したところ、主簿楊修がその意を読んで先に荷造りを始め、「雞肋は捨てるには惜しいが食べても得るものがない、漢中もそれと同じで王は撤退の意を固められた」と説いた逸話を伝える。
- 夏五月、太祖は軍を引いて長安に還った。
- 秋七月、夫人卞氏を王后とした。于禁を曹仁の援軍として関羽討伐に送った。八月、漢水が氾濫し于禁の軍が水没、関羽は于禁を捕らえ、さらに樊城の曹仁を包囲した。太祖は徐晃を救援に送った。
- 九月、相国鍾繇は西曹掾魏諷の謀反に連座して免官された。『世語』は、魏諷が鄴に潜伏し長楽衞尉陳禕とともに鄴襲撃を謀ったが、決行前に禕が恐れて太子曹丕に密告し、魏諷が誅殺され連座者数十人が死んだ経緯を伝える。
- 冬十月、軍は洛陽に還った。孫権は関羽討伐に協力する旨を上書した。太祖は自ら南征に向かったが、到着前に徐晃が関羽を破り樊城の囲みを解いた。太祖軍は摩陂に駐屯した。孫権は臣を称する上書を送り、侍中陳羣・尚書桓階らは漢の運が尽きていることを説いて太祖に帝位に即くことを勧めたが、太祖は「『政に従うこともまた政である』というではないか。もし天命が我にあるなら、私は周の文王でいよう」と述べて拒んだ。夏侯惇も同様に勧進したという(裴松之はこの逸話の史実性に疑問を呈している)。
建安二十五年(220年)――薨去
- 春正月、太祖は洛陽に至った。孫権は関羽を討って首を送ってきた。
- 庚子、太祖は洛陽で崩じた。享年六十六。『曹瞞傳』は、直前に美しい梨の木を移植した際に根から血が出たことを不吉として太祖自身が気に病み、そのまま病臥した逸話を伝える。遺令では「天下がまだ安定していない以上、古の厚葬の礼に倣うことはできない。葬儀が終われば喪服を脱ぎ、屯戍の兵は持ち場を離れず職務にあたるように。時服のまま棺に納め、金玉珍宝は納めるな」と簡素な葬儀を命じた。諡は武王。二月丁卯、高陵に葬られた。
太祖の人物像(裴松之注引)
- 『魏書』は太祖の軍事について、孫子・呉子の兵法を基本としつつ臨機応変の奇策を駆使し、変幻自在であったと評する。自ら十万余言の兵書を著し諸将はこれに従って戦った。冷静に戦機を見極め、決すべき時には気迫をもって必ず勝利を収めたという。于禁・樂進を陣中から、張遼・徐晃を降兵の中から抜擢するなど人材登用に長け、無名の人材を牧守にまで引き上げた例は数え切れない。三十余年の軍中生活でも書を手放さず、昼は兵法を講じ夜は経伝を思索し、詩作にも優れ音楽に乗せて楽章とした。弓射・武芸にも秀で、南皮で一日に六十三羽の雉を射止めたこともある。建築や器械の製作にも通じた。
- 生活は質素を旨とし、後宮の衣服は錦繡を用いず、侍従の履物も贅を尽くさず、帷帳や屛風は壊れても継ぎ当てで済ませた。戦利品は功績ある者に惜しみなく分け与えた。葬送の儀礼も簡素化し、あらかじめ自ら喪服四箱のみを用意していたという。
- 『傅子』は、太祖が嫁娶の奢侈を憎み、自分の娘を嫁がせる際も質素な帳を用い従婢は十人までとしたと伝える。
- 張華『博物志』は、太祖が草書・音楽・囲碁にも通じ、方術・養生法にも関心を持ち、左慈・華佗・甘始・郄儉ら方術の士を招いたと伝える。
- 『傅子』は、太祖が漢末の奢侈な服飾風潮に対し、資財窮乏を理由に古の皮弁に倣った質素な帢(かぶりもの)を考案し、身分により色分けして用いさせたと伝える。
- 『曹瞞傳』は、太祖が軽妙で威厳に乏しい一面を持ち、音楽や芸人を好み、談笑を好んで盃に頭を突っ込むほど笑い転げることもあった一方、法の運用は極めて厳格で、自分より優れた計略を出した将でも法に照らして誅殺し、旧怨も容赦しなかったと伝える。処刑にあたっては涙を流して哀しみつつも決して生かさなかったという。沛国の袁忠・桓邵、兖州時代の陳留の邊讓を殺し一族を滅ぼした例、麦畑で自らの馬が麦を踏んだ際に軍法に照らして自ら髪を切り首の代わりとした逸話、寵愛する侍女を誤って死なせた逸話、兵糧不足の際に主者に小さい枡での不正配給を命じておきながら、軍中の不満を鎮めるため後にその主者を身代わりに処刑した逸話などが、太祖の峻厳さと権謀の一端として伝えられている。
史論
- 陳壽は評して言う。漢末、天下は大いに乱れ英雄が並び起こる中、袁紹は四州に虎視し勢力は並ぶ者がなかった。しかし太祖は謀略を巡らせ天下を鞭撻し、申不害・商鞅の法術を取り、韓信・白起の奇策を兼ね備え、才に応じて人を用い、私情を捨てて旧悪にこだわらず、ついに国家の大権を統べて大業を成し遂げた。これはひとえにその明察と謀略が最も優れていたからである。まことに非常の人、世を超えた傑物というべきである。