三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興 三十一年 1161年

十二月五日 巡幸のための沿路整備

  • 高宗が十日に巡幸・視師のため出発することが決まり、経由する州県に対し、過度な華美や無理な科斂を禁じ、必要経費以外の献上物を禁止する詔が出された。
  • 揚州招撫司には賈和仲が任命された。賈和仲は単騎で入城し、金人が遺棄した器甲の買い上げなどを行ったが、総領朱夏卿との軋轢から讒言を受け、まもなく罷免された。後任に向子固が就き、城の修築が進められた。

十二月七日 和州・鄧州方面の情勢

  • 建康府知府張燾は都統李顯忠に対し、和州近辺になお金軍が残っていることへの警戒を促した。李顯忠は大軍を率いて和州から三十里の地点で金軍と対峙した。
  • 鄧州では、金軍の都統劉萼が敗走した混乱の中、金の鄧州節度使蕭中一が部下に殺害される事件が起き、録事高通が城内の意見をまとめて南宋への帰順を決定。鄧州は南宋の統治下に戻った。

十二月九日 武鉅、河南府を回復

  • 果州団練使武鉅は忠義軍を率い、盧氏県の郷軍と合流して嵩州・長水・永寧・福昌の三県を回復。十二月九日には河南府も回復した。

十二月十日 車駕の巡幸開始と反逆者の処刑

  • 高宗が臨安府を出発し、平江府で倪詢・応簡ら反逆者を凌遅処斬に処した。捕らえた金人も併せて処刑された。

十二月十二日 成閔、盱眙軍・泗州を回復

  • 淮東等路制置招討使成閔は盱眙軍を回復し、泗州でも敵船を奪取・撃破して城を陥落させた。粟米三万余石を得、捕虜となっていた民数万人を解放した。呉拱も汝州を回復した。

十二月十五日 淮東の金軍撤退と招安の詔

  • 高宗が常州無錫県に至った時、淮東の金軍がすでに撤退し、淮西にはなお三万の兵が和州に残っているとの報が届いた。陳康伯らは金人を含む投降者への寛大な招安策(官職の付与など)を撰定した。
  • 行宮宿衛使楊存中は完顔亮配下の将吏に向けて、逆順の理を説き投降を勧める檄文を発した。
  • 成閔は陳州も回復した(陳享祖が忠義人を率いて先んじて奪還していた)。

十二月十六日 李顯忠、和州を回復

  • 李顯忠は慈湖から渡河して石跋觜に布陣し、金軍と対峙。十六日夕、金軍は寨を放棄して北へ退却し、和州が回復された。捕虜となっていた住民三千余人を解放した。
  • あわせて、楊泰・真楚・滁和・濠廬・光州・盱眙・高郵・光化・無為・安豐・信陽軍への大赦(徳音)が発せられ、被害を受けた民への減免措置がとられた。
  • 泗州では横山の民兵指揮官劉繹が土豪張揖と共に金軍を攪乱した功により、成閔から修武郎閤門祗候・権知泗州に任じられた。

建康府知府張燾の事績(付伝)

  • 張燾は紹興八年の和議交渉に反対し、和議推進派を批判して弾劾されかけたが、高宗の信任により事なきを得た。のちに再び河南の議和で功を上げ、河南視察の使者としても民の信望を集めた。
  • 紹興三十一年の金軍南侵に際しては建康府知府として防備を統轄し、虞允文と協力して防戦の方針を固めた。虞允文が采石で戦功を挙げた背景には、張燾の後方支援があったとされる。

呉璘、金の鳳翔方面司令へ帰順を勧める書

  • 四川方面の呉璘は、金の鳳翔喀齊喀貝勒(都統)に対し、正隆(亮)弑殺後の政変で功臣が粛清される先例(東昏侯の故事等)を挙げ、南宋への帰順を勧める書簡を送った。