三朝北盟會編炎興下帙 紹興九年 1139年

五月 河南諸州の旧名回復と諸将来朝

  • 張俊・韓世忠が来朝。金・劉豫統治下で改名されていた南京帰徳府・応昌府(許州)・淮寧府(陳州)・順昌府(潁州)・寿春府(寿州)・興仁府(曹州)・平凉府(渭州)・慶陽府(慶州)・延安府(延州)が旧名に復された。孟庾が西京留守兼河南府路宣撫使となった。

李世輔、延安府に入り夏国宰相王樞を捕獲

  • 夏国に逃れていた李世輔は、夏国主を説いて陝西五路奪還のための出兵を実現させ、宰相王樞監軍のもと延安府に進軍した。李世輔は城将趙惟清に金人への復讐を名目に開門を迫ったが、既に宋への大赦が行われ河南が返還されていたことを知り驚愕。趙惟清と謀って夏軍首脳を宴席で急襲し、王樞を捕らえ夏国都統を殺害、混乱に乗じて夏軍を潰走させた。
  • 李世輔はその後、朝廷への帰順を巡り一時逡巡したが、樓照の宣諭を受けて決意し、王樞を伴い朝廷へ帰順した。馬は陝西に残されたが、後に金の背盟によりすべて金の手に落ちた。

趙士訸・張燾、陵寝参拝から帰還

  • 陳蔡・汝潁を経て洛陽に至り、柏城(陵墓)を修復して祭礼を行った趙士訸・張燾が帰還。張燾は上奏し、金への深い恨みを述べつつも梓宮・両宮の帰還を優先する現状ではやむを得ないとしながらも、将来の北伐に備え武備を怠らぬよう説いた。皇帝は「諸陵を思うと言葉もない」と沈痛な様子を見せた。
  • 張燾はさらに、陵墓の枯れていた石澗の水が祭礼を機に湧き出したことを瑞祥として報告し、金が淮揚で筏や縄索を大量に製造している不審な動きへの警戒、黄河の船が全て金側に押さえられている問題、新復州県の官吏人事における賄賂の横行、陝西諸帥の不和を統率する大帥設置の必要性などを具体的に上奏したが、和議を主導する秦檜はこれらの提言をほとんど実行しなかった。

六月二十一日己巳 呉玠薨去

  • 中書舎人王綸の墓誌銘によれば、呉玠は徳順隴干の人。若くして涇原軍に属し、夏国との戦や方臘の乱鎮圧で功を挙げた。建炎年間以降、金軍の陝西侵攻に対し青渓嶺・彭原店などで奮戦し、富平の戦いでの大敗後も散関東の和尚原に拠って金軍を撃退し続けた(神岔峪の伏兵戦で金将雅格貝勒らを捕獲するなど大勝)。
  • 紹興三年には金の大軍を饒風関で六日間にわたり迎え撃ち、四年には仙人関で再度の猛攻を撃退するなど、蜀の防衛に決定的な役割を果たした。晩年は開府儀同三司・四川宣撫使に至ったが、和議成立直後の紹興九年六月に仙人関の陣中で病没(享年四十七)。
  • 呉玠は兵法を孫呉に学びつつ独自の戦術眼を持ち、部下を厚遇し功賞は公論に基づいて行ったため人心を得たが、私財をほとんど蓄えず、死後は住む家すらなかったと伝えられる。弟の呉璘は「金人との戦いは一進一退の速戦ではなく、長期の持久戦の中で敵の弱点を見極めて制する」という兄の戦術思想を語った。紹興十年、仙人関に廟が建てられ「忠烈」の額と「武安」の諡が贈られた。