三朝北盟會編炎興下帙 紹興九年 1139年

三月甲申 王倫、京師を接収

  • 烏珠が京城を発ち、王倫が京師の引き渡しを受けた。京城の官吏・百姓は烏珠を見送り、州軍の官物は八割を河北へ搬送し、二割を留めるとの取り決めがなされた。

人事

  • 馬擴は沿海制置副使から荊湖南路馬步軍副總管に転じた。朝廷が和議を進める中で用兵論を避けたため、馬擴は自ら退任を願い出た。武岡の異民族の反乱鎮圧では張球を推挙し功を上げさせた。
  • 郭仲荀が京城副留守となり、張浚の兵千人を率いて東京へ赴いた。制文では、金との和議成立を機に旧都の民心を慰撫する重責が述べられた。

四月 呂頤浩薨去

  • 呂頤浩は滄州樂陵の人。紹聖元年進士。宣和年間には河北転運副使として燕山攻略後の財政窮乏を諫言し、一時左遷されたが後に復官。建炎年間には行在の整備や苗劉の変の鎮圧で功を挙げ、尚書右僕射・左僕射を歴任した。
  • 建炎三年の金軍侵攻時には航海避難策を主導し、韓世忠と連携して金軍の渡江を阻む策を献じた。趙鼎との確執から一時罷免されたが、その後も駐蹕地の選定、屯田の実施、賞罰の明確化など具体的施策を次々と上奏し、紹興年間を通じて宰相・都督として国防・財政の立て直しに努めた。北伐の時機や兵站、進軍路について「十論」を上奏するなど、軍事戦略にも通暁していた。
  • 秦檜との確執から晩年は西京留守という危険な任地に配されて発病し、致仕を願って台州に帰り、四月に薨去(享年六十九、贈太保、諡忠穆)。生涯を通じて信賞必罰と実務を重視し、私を顧みない姿勢で知られた。