三朝北盟會編炎興下帙 紹興八年 1138年

二日甲申 張通古の来使と張戒の再論

  • 金は張通古を「江南詔諭使」、蕭哲を副使として派遣し、朝廷は范同を接伴使とした。張戒は「江南」と直接呼び国号を用いない金の姿勢や「詔諭」の名目を問題視し、まず使者の官名・目的・礼節を確認すべきだと上奏。自らの三年前の予測(開戦は必敗)が的中したことを引き、和議も成就しないと重ねて警告した。同日、皇帝に太后帰還の可能性はあっても実現の道筋がまだ見えないと改めて上奏した。

三日乙酉 張戒、偷安の危険を説く

  • 張戒は、和議に安易な期待を寄せることの危険性を説き、屈辱を伴わずに済む保証はないと論じた。

禮部侍郎曽開の反対論

  • 曽開は、越王勾践が会稽の恥を忘れず二十二年かけて呉を滅ぼした故事、楚が張儀の欺瞞に乗せられて衰亡した故事を引き、金の和議提案を信じるべきでないと説いた。金が兵備を増強しつつ和議を持ちかけるのは謀略であり、朝廷は自治・自強に徹すべきだと主張した。

十九日辛丑 侍従・台諫に和議の当否を諮問

  • 金使張通古・蕭哲の入境を受け、皇帝は秦檜と和議受け入れを内定しつつも、形式的に侍従・台諫へ意見を求める詔を下した。曽開は再び上奏し、屈己を求める金の要求は劉豫同様の臣従を意味すると強く反対したが、聴き入れられず、寳文閣待制として宮祠に左遷された。
  • 尹焞が礼部侍郎兼侍講に任じられた(後述の辞退を経て、徽猷閣待制・提挙万寿観兼侍講となる)。

二十日壬寅 張燾・魏矼の反対論

  • 兵部侍郎張燾は、金の和議提案の裏に潜む複数の思惑(中原保持の断念、内乱への懸念、契丹への牽制、厭戦、新主の正統性確保)を分析しつつ、天意にかなうかどうかを慎重に見極めるべきとし、拙速な信頼は禁物だと説いた。皇帝は「已に十二年、無辜の民の犠牲に耐えかね屈己に至った」と応じた。
  • 吏部侍郎魏矼は、孝と忠の道を説きつつ、劉豫のように屈膝して金に臣従することは決して受け入れてはならないとし、大将・軍を交えた広範な諮問を求めた。紹興三年の金使来訪時に朝廷が自強策で凌いだ先例を引き、孟子の「国人皆曰不可」の教えに従うべきだと論じた。