三朝北盟會編炎興下帙 紹興八年 1138年

十七日辛未 張戒、和議は成り得ずと論ず

  • 金は烏凌阿思謀・石少卿を遣わし、故地・梓宮・淵聖の返還を持ちかけて和議を求めてきた。殿中侍御史張戒は、故地の復帰・梓宮の返還・淵聖の帰還は実現不可能だが、両国の休戦や太后の帰還だけはあり得ると分析。両国の和議を婚姻の縁組にたとえ、国力が拮抗しない限り和議は成立しないと説いた。
  • 智伯が衛を襲おうとして先に厚礼を贈った故事や、石勒が王浚を欺いた故事などを引き、金が劉豫を廃して中原を得たうえで和議を持ちかけるのは「無功の賞・無力の礼は禍の前兆」であり、警戒すべきだと論じた。財貨で復地を購おうとしても童貫の燕雲買収の二の舞になるだけで、兵力を強化してこそ初めて故地・梓宮・淵聖の返還が実現し得ると主張し、十二条の具体策を上奏した。太后のみは帰還の可能性があるとし、太祖が晋陽陥落の民を贖った故事などを引いて希望を述べた。

和議をめぐる人事の動き

  • 御史中丞范同・戸部侍郎向子諲・中書舎人潘良貴が同時に罷免された。秦檜・向子諲・范同が和議を進めようとしたのに対し、潘良貴は主戦を唱えて対立し、皇帝の前で言い争いとなった末、いずれも罷免された。
  • 劉錡は廬州から召還され、王庶の要請により鎮江府に軍を移した。

三十日甲申 張戒、和戦両面の備えを説く

  • 朝廷が王倫を金へ遣わし梓宮を迎えようとする中、張戒は「表向きは和議、内実は決戦の志を忘れず、実態は厳兵を以て守る」ことこそ肝要だと再び上奏し、皇帝はこれを深く納得した。

七月 王倫、梓宮請還のため再び金へ

  • 王倫が端明殿学士に加えられ、金国へ梓宮返還を求める使者として派遣された。

八月 辺備の申し飭めと軍の配置

  • 八日辛酉、和議交渉に伴い辺境が油断しないよう戒める詔が下された。巨師古軍は和州に、沿海制置使の軍は鎮江府に配された。

九月 諸将の来朝と主戦派の罷免

  • 韓世忠・張俊・岳飛が来朝。参知政事の劉大忠は、趙鼎の和議反対論に与したため秦檜の怒りを買い、資政大夫として処州知事に左遷された。

十月 趙鼎の罷免と秦檜の主導権掌握

  • 劉錡が来朝。金からの和議申し入れをめぐり、趙鼎は断固反対したが、秦檜は皇帝と二人だけで和議を決すべきと進言し、三日ごとに熟慮を求めるやり取りを三度繰り返した末、皇帝の和議への意志が固いことを確認すると、群臣の関与を排して和議を独断で進めることを願い出て許された。
  • 趙鼎は議論が折り合わないまま検校少傅・奉国軍節度使として紹興府知事に左遷された。出立の際、秦檜は餞別の礼を整えたが、趙鼎は挨拶もそこそこに舟を出させ、両者の間に決定的な確執が生じた。