正月 臨安駐蹕と河南方面の帰順
- 車駕は臨安府に駐蹕。八日乙未、知臨安府の呂頤浩が行在に赴いた。
- 十四日辛丑、偽斉の知蔡州劉永夀は、監視役の烏嚕貝勒を誅殺して城中の老幼を率いて宋に投降した。烏嚕貝勒は劉永夀の罪を金に讒訴していたが、密告を察知した劉永夀が先手を打ち、部下の白安時に命じて烏嚕貝勒の軍を殲滅させた。岳飛は張憲らを遣わして投降民を受け入れ、白安時は武功大夫髙州刺史に任じられた。亳州の宋超も同時期に投降するなど、劉豫廃止後の中原からの帰順・避難が相次いだ。
二月 建康発駕と江淮防備をめぐる議論
- 七日癸亥、車駕は建康府を発した。参知政事張守は、建康こそ六朝以来の帝都であり中原経営・強敵防御の要害であるとして駐留を主張したが、宰相趙鼎は臨安への帰還を望み、両者の議は折り合わなかった。皇帝は張守の言を是としつつも、結局は趙鼎の意見が通り、張守は罷免された。
- 韓世忠・岳飛が来朝。王庶が兵部尚書に任じられた(便殿で秦蜀の形勢を弁じ皇帝を喜ばせたことによる)。
三月 辺備の勅諭と秦檜の右僕射就任
- 二日丁亥、諸路の宣撫・制置使や帥守・監司に軍旅への協力を求める詔が下された。光武帝の中興の故事を引き、辺防と内政の両立を諭す内容であった。
- 七月壬辰、秦檜が尚書右僕射・同中書門下平章事・兼枢密使に任じられた。制文では秦檜を「忠にして寛裕、権を守りて通を知る」大臣と讃え、丙吉・魏相や宋璟・姚崇に比した(実際は七月の記事だが、原文は三月の条に続けて記されている)。
- 王庶が枢密副使となった。劉光世の罷免と酈瓊の叛乱を受け、朝廷が諸大将への遠慮から改革をためらう中、威望のあった王庶が抜擢された。
四月 王庶の江淮巡視と李世輔一族の悲劇
- 十四日己巳、王庶に営塁を巡察させ州県の弛緩を糾すよう命じる詔が下った。王庶は殿前の教場で盛大な閲兵・犒軍の礼を行い、諸将が軍装で拝命する様に人々は感嘆した。王庶は淮上に赴き、張浚配下の張宗顔を淮西安撫使兼知廬州とし、巨師古を太平州に、淮東の各軍を天長・泗上に配して呼応させ、劉錡軍を鎮江に戻して根本を固めた。岳飛は王庶に書を送り、今年出兵しなければ節を返上したいとまで述べて意気込みを示した。
- 張燾が兵部侍郎に召還された。皇帝との対話で、張燾は治世十二年に成果が上がらない要因として「国家の規模(施政方針)が定まらない」ことを指摘し、朝令暮改や宰相の頻繁な交代(十二年で十四回)を批判した。皇帝はこれに深く納得した。
- 知同州の李世輔と知華州の王世忠が金からの帰順を謀ったが、内通が露見して王世忠は殺害された。李世輔は金の西路元帥薩里罕を捕らえて南走したが、薩里罕の言葉を信じて釈放してしまい、追撃を受けて夏国へ逃れた。金は李世輔の一族を皆殺しにした。
五月 劉子羽の処分と張戒の和議批判
- 御史中丞常同の弾劾により、陝西での失策を理由に劉子羽が漳州に安置された。
- 四日、金との和議の噂が流れる中、監察御史張戒は「主戦論者は和を語らず、主和論者は戦を語らないが、防備だけは緩めてはならない」と上奏し、和議が成っても油断は禁物と説いた。
六月 金使の来聘と和議をめぐる対立の始まり
- 金が使者烏凌阿思謀を遣わすとの報が入り、樞密使の王庶は江淮巡視から召還された。王庶は和議に反対する上奏を五度にわたって提出し、金の講和は本心からのものではなく謀略であるとし、「使者を拘束して怒りを示す」「使者に会わず大臣に協議させる」「弱腰を装い敵の油断を誘って精兵で急襲する」の三策を提言したが、聴き入れられなかった。
- 金の少卿烏凌阿思謀が来聘。王庶は再度和議に反対する上奏を行ったが、朝廷では宰相趙鼎が拒否、秦檜が受け入れを主張し意見が分かれた。皇帝の引見では思謀が横柄な態度を示し、朝廷側の対応も定まらないまま推移した。旧知の馬擴の起用も、思謀に警戒されて見送られた。