劉豫在位中の布告類
- 九月二十日の求言榜では、劉豫が即位当初の困難を述べ、官吏・軍民・耆老に隠さず意見を上奏するよう呼びかけた。
- 十一月二十三日の建元榜では、当初は宋への遠慮から新元号を立てなかったが、金の要請により「阜昌」と改元する旨を布告した。
- 十二月十八日の遷都榜では、汴京こそ天下の要衝であるとして、翌年春末に大名から汴京へ遷都する方針を示した。
- 銭氏を皇后に立てる冊文では、呉越銭氏の家柄を称え、質素と婦徳を旨として立后する旨が述べられた。
- 守令に農事奨励を命じる勅では、田野の開墾が進まない現状を憂い、郡守県令に率先して勧農にあたるよう命じた。
什一税法の制定・弁明
- 戸部の馮長寧らが上奏し、夏殷周三代の税制(貢・助・徹)を引きつつ、両税法以来の弊害(豪右による土地兼併、無田課税、賄賂による軽重)を批判し、収穫の実数に基づく什一税法を定めたと説明した。
- 施行後、豪右層の抵抗や誹謗が生じたため、税収はすべて官吏の俸給・軍需・防備に充てられ私腹を肥やすものではないとして、布告により浮言を抑えるよう求め、劉豫はこれを裁可した。
金人による劉豫廃立の決定過程
- 金の尚書省・元帥府は、斉国建国から八年を経ても民心を得られず、金の威徳を損なっていることを理由に廃止を上奏し、劉豫を蜀王に降封する詔が下された。
- 具体的処分として、斉国独自の重法を廃して金の律令に統一すること、射粮軍の帰農の自由、老幼病残者への養済、離散した拉致民や逃亡者の身柄の扱い、宮人・内侍の縁組・帰郷の自由、既存官吏の任用継続、賢才の推挙、古今の聖賢の墳墓祠廟の保全、江南への亡命者の帰投時の免罪など十数項目にわたる措置が定められた。
- 廃齊後、張孝純を行台尚書左丞相とするなど金人・契丹人・燕人・旧斉官僚を混成した新体制の人事が発表され、旧斉の武将(折可求・李成・酈瓊・徐文ら)もそれぞれ旧職のまま留任・配置された。
曹王への進封
- 金は劉豫を「曹王」に進封する冊文を発し、かつての功を称える体裁を取りつつ、事実上の流謫であった。劉豫はこれに対し謝表を奉じ、八年の苦労が報われたと表向き感謝を述べたが、実態は失意のうちの追従であった。
状元羅繡「南征議」
- 劉豫治世下の状元羅繡は、漢の高祖の故事を引いて好機を逃さず南征すべきと説く上書を提出した。躊躇する理由として挙げられる「旧主(宋)へ内応する」「金の負担が重い」「山東の民心を失う」「陛下自ら出陣すべきでない」の四点をいずれも論駁し、両淮・金陵の要害を得れば南朝を制圧できるとし、南宋の宰相・諸将(呂頤浩・秦檜・張浚・韓世忠・劉光世ら)を無能と酷評して六つの勝機(地の利、宰相の不在、諸将の不和、兵の統制欠如、皇太子の不在、財政窮乏)を列挙した。
- 劉豫はこの上書に感激し、羅繡に絹を賜り登用を約束する詔を下したが、実際に南征が行われることはなかった。
金人節要(補遺)
- 達蘭が宿遷から帰還する際、劉豫が出迎えの礼を欠いたため達蘭が激怒し面会を拒んだこと、渤海の万戸大托卜嘉が劉豫の出世に不満を漏らしたことなど、金側の記録に劉豫への不満が既に見えていたとする逸話が記される。
- 劉豫の参謀馮長寧が金に酈瓊の投降と南侵の好機を説いて援兵を求めたが、金はすでに廃豫を内定しており、達蘭・烏珠・托卜嘉を派して劉豫を捕らえさせた経緯が改めて記される。豫は幽閉後、瓊林苑・相州・燕山・中京を経て上京へ移された。
- 劉豫配下の知臨汝軍・崖来虎が投降。王倫・髙公繪が金国からの帰還を報告し、金が梓宮・韋太后の返還および河南州軍の返還を約したことを伝えた。