十八日丙午 金人、劉豫を廃す
- 金の副元帥烏珠と三路都統阿嚕伯・竒五郎君は数十騎を率いて開封城内に突入し、垂拱殿・後宮を経て講武殿で射を観ていた劉豫を見つけ出した。烏珠は豫の手を取り「議事あり」と偽って寨中へ連れ出させ、豫が事態を悟って号泣する間もなく馬に乗せて金明池に幽閉し、蜀王に降格した。豫は在位七年で年六十五、独自の紙幣「交子」を発行していた。
- 翌丁未、金は文武百官・軍民・僧道・耆老を宣徳門下に集めて詔書を読み上げ、斉国建国から八年を経て統治の実が上がらなかったとして廃止を告げた。式典の間、金の使者は宋の旧官に横柄に接し、兵は「元の主人(宋)を呼び戻す、爾らを楽にさせてやる」と触れ回って千軍を即日解散させた。金は豫の馬四万余匹、銭九千八百七十万緡、絹二百七十万疋、金二百二十万両、銀二百万両、粮九十万石などを接収した。
劉豫父子の奢侈と圧政の実態
- 豫の後宮は百七十人(うち懐妊九人)、子の劉麟の妾は百二十人に及び、表向きは倹約を装いつつ実際は淫逸を極め、廉公謹・侯湜ら臣下が妻子や姪を献上して官職を得るなど、賄賂と密告による人事が横行した。
- 密告を奨励し「南へ行く」など些細な発言も反逆と見なして処刑する猛政を敷き、民は父子の間でも言葉を慎むほど恐怖政治が徹底した。子の劉観・劉復・劉猊はいずれも搾取に走ったが、劉益のみ財を軽んじ士を厚遇し人望を得たため、豫廃位の際に金からも警戒された。
- 邢希載・毛澄ら忠言を呈した者は密かに処刑され、豫が瓊林苑に幽閉された後には道士に醮を修めさせて彼らの霊を弔わせている。豫の即位当初を揶揄する諷刺詩が世に流布した。
- 達蘭は幽閉された豫を「趙氏の少主が退位した時は民が哀哭したが、爾の廃位を悲しむ者は一人もいない」と面罵した。劉氏一族の劉珏は長安で人望を得ていたが、豫廃位後に金から鄭州へ召されて毒殺された。
楊克弼「偽豫伝」:劉豫の生涯
- 春秋の筆法(善悪を爵位・姓名の書き方で示す)に則り、劉豫を「乱臣賊子の戒め」として伝を作ると宣言。劉豫は字を彦游、景州阜城の農家の出で、元符年間に進士に及第し、政和二年に殿中侍御史となったが、若い頃の窃盗の旧悪が露見して左遷された経歴を持つ。
- 建炎二年、済南知府として金軍来襲時に子の劉麟を出撃させたが、最終的に金に降伏・帰順。建炎三年には金の後ろ盾で東平に移り、翌年には北京(大名)で皇帝に擁立され、国号を「大斉」、都を大名とした。金は張孝純を右丞相に、子の劉麟らを要職に配した。
- 阜昌(劉豫独自の元号)元年より、房産税・人頭税など苛斂誅求の税制、密告奨励、什一税法の制定と改訂、都を汴京へ遷都、明堂・祖廟の造営、頻繁な官職改廃などを行った。阜昌五年・六年には南侵を試みたが韓世忠らに阻まれ、九月には子の劉猊が楊沂中に大敗して兵七千両・船七百隻を失うなど大敗を喫した。
- 阜昌年間を通じ、天変地異(星の墜落、地震、暴風)を凶兆として占う臣下を処刑するなど猜疑心の強い統治を続け、末年(阜昌八年=紹興七年)に金への援兵要請を機に、金が酈瓊の投降を利用して廃立を決行するに至った。
劉豫廃位後の処遇
- 廃位後、豫は瓊林苑に幽閉され、のち相州・燕山・中京を転々とさせられ、最終的に上京(金の旧都、契丹の西楼の地)へ移された。金は豫を「曹王」に進封する冊文を与え、表向きは厚遇を装ったが、実質は流謫であった。
- 十二月甲戌、豫は相州から上京へ移されて曹王に改封された。在位(斉帝としての在位)は八年、享年六十五。
金人節要・その他の記録
- 金国の記録(節要)によれば、達蘭は宿遷から北帰する途中、劉豫が出迎えなかったことに立腹し、贄物を却下して面会を拒んだという。渤海の万戸大托卜嘉は、劉豫が山東の一郡太守にすぎなかった身から皇帝に成り上がったことに不満を漏らしたと伝える。
- 劉豫の参謀馮長寧が金に援兵を求めた際、金はすでに廃立を決めていたが、劉豫の勢力を警戒して表向き出兵を許すふりをしつつ、密かに達蘭・烏珠・托卜嘉に廃立を命じ、酈瓊の投降を口実に劉豫を捕らえるに至った経緯が記される。
- 王倫・髙公繪が金国から帰り、和議の約束(梓宮返還・韋太后帰還・河南州軍返還)を報告した。