三朝北盟會編炎興下帙 紹興五年 1135年

胡寅、重ねて遣使無益論を説く

  • 胡寅は、宰相張浚が「使者派遣は兵家の機略」と論じたのに対し反駁する上疏を献じた。要旨は次の十点である。
  • 尼堪は用兵二十余年の老獪な将であり、宋の虚実を熟知している以上、卑辞をもって驕らせても意味がない。
  • かつて使者を送らなかった時期は金兵も来なかったのに、送った途端に淮南への侵攻を招いた。
  • これまでの選りすぐりの侍従臣でさえ敵地で要領を得られなかった。まして今回の使者では覘国の任に堪えない。
  • かつて富弼は一言で南北の大戦を止めた功でも褒賞を固辞したほど慎重であったのに、今の使者は私事や恩沢を優先し市井の徒と変わらない。
  • 劉豫の存亡に金の利害がかかる以上、金は必ず援軍を送る。使者を出さずとも情勢は明白である。
  • 劉豫は淮北を、尼堪は河北を自らの領土と見なしており、使者は敵地に到達すること自体が困難である。しかも劉豫討伐の詔をすでに発した以上、劉豫が使者を金へ取り次ぐはずもない。
  • 弱者が強者に媚びを売れば、強者はますます増長するだけである。
  • 尼堪の勢いも兵馬の消耗や将士の驕りにより数年のうちに必ず衰える。今は大江の険を頼みに守りを固め時を待つべきで、いま示す卑屈な態度はかえって侮りを招く。
  • 和議を唱える者は自らの保身を図るのみで、和策を併用すれば謀臣・志士の士気は失われ将は油断する。
  • 二帝奪還を大義名分とする議論もあるが、建炎以来の使節でその消息を得た者は一人もいない。むしろ復讐の名分を貫き、力を蓄えて中原を回復した後に改めて二帝奉迎を求めるべきである。
  • 漢の高祖が項羽を「不義の徒」と断じ守り抜いて天下を得た故事、劉備・諸葛亮が魏を賊と呼びつつ天下三分を果たした故事を引き、名分を正して国力を養い北伐に備えるべきとし、張浚の遣使容認論には同意しかねると結んだ。

楊造「乞罷和議劄子」

  • 楊造は陸贄の外患対処論を引き、敵の強弱は自国の盛衰次第であり定まった策はないと説いた上で、靖康以来の和議が結局は敵の術策に利用され二帝蒙塵を招いた教訓を強調した。
  • 金が和を許せば宋は油断し財を尽くして重賂を送り民の怨嗟と盗賊を招く。金が和を拒めば宋はかえって死力を尽くして防備を固める。ゆえに「金が和を拒む方がむしろ喜ぶべきこと」と逆説的に論じた。
  • 趙・鄭が秦に領土を割いて奉じた末に虞卿が諫めた故事、勾践が会稽で屈した状況とは異なる現状の分析、魯仲連が「秦を帝とせば東海に身を投げる」と説いた故事などを引き、金への称臣・貢納は決して行うべきでないとした。
  • 漢の高祖が呂后・太上皇を項羽に人質に取られながらも屈しなかった故事を引き、二帝が金の手にあることを理由に和を急ぐ必要はなく、まず中原を回復して国威を示した上で改めて二帝奉迎を求めるのが順序だと説いた。
  • 陳恆弑君の際、魯が斉の半分の勢力しかなくとも孔子が討伐を主張した故事、赤壁で孫権が周瑜の策を用いて曹操の大軍を破った故事を引き、兵の勝敗は人謀次第であるとし、和議を排して戦守の備えに専念すべきだと結んだ。

六月 岳飛、湖賊を平定

  • 楊么がその配下(楊欽・夏成ら)に殺され、残党は各地に拠って抵抗を続けたが、岳飛は張俊の防秋準備との兼ね合いで「八日で討滅する」と請け合い、伏兵と水路を用いた奇襲で統制任安の軍を囮に敵をおびき出し、瓦石で水路を埋め立てて陸路化した上で寨を攻略、楊欽らを降し夏成を討ち取り、湖賊をことごとく平定した。楊欽には武翼大夫が授けられたが、その経歴(鍾相・楊么の乱に乗じ「官軍到来まで郷村を保守した」と自称)を知る者は失笑したと『遺史』は伝える。
  • 仇悆は知明州兼治海制置使、王彦は知荆南府兼峡州荆門公安軍安撫使に任じられた(王彦着任時、荆南の府庫は底をつき、前任解潜はすでに離任していた)。

七月 王彦、荆南の復興

  • 王彦は荒廃した荆南で川の交子(紙幣)法を導入して財政を整え、屯田を興し、荒廃していた沮河の堰(石塘瓦窯三堰)を将士六万人役で十日足らずに修復、灌漑を復活させて公私ともに大きな利益をもたらしたと称賛された。

八月 張俊、光禄大夫に加階

  • 湖湘平定の功により張俊は光禄大夫に加えられ、制詞では文武兼備の才と将としての功績が美辞麗句をもって称えられた。馬擴は都督行府都統制に任じられた。

九月 光州回復と諸将の加階

  • 化旺は光州で偽斉軍を破り、これを回復した。岳飛は検校少保に加階。
  • 解潜は主管馬軍司公事に。太原救援戦で敗れて一時失脚した経歴を持つが、楊么の乱鎮圧などの功で趙鼎に推挙され復帰。後年、王彦軍との衝突で再び罷免されたが趙鼎再任時に復職し、最終的には和議批判が秦檜の怒りを買い左遷され没したという。趙鼎は左光禄大夫に加階。

十月 地方大使の任命

  • 李綱は知洪州兼江西安撫制置大使、呂頥浩は知潭州兼湖南安撫制置大使、席益は知成都府兼成都潼川府利䕫路安撫大使にそれぞれ任じられた。皇帝は李綱・呂頥浩それぞれに親筆の詔を賜り、盗賊平定と民心慰撫を期待する意を伝えた。

十一日庚戌 張俊、行在に至り上奏

  • 張俊は召見に応じ、二帝の逺境での苦難に思いを致しつつ、勝敗は交戦の巧拙以前に天下の民心を得るかどうかで決すると説いた。君主が孝悌の心を忘れず、賢者を用い佞臣を退け、財貨や恩賞を私せず礼法に適う言動を貫けば、将士の士気も民心も自ずと帰服すると論じ、些細な過失や側近の不徳が禍乱を招く先例(明受の変など)を引いて君主の戒慎を求めた。皇帝はこれを大いに嘉納した。

漣水軍の戦いと親征への詔

  • 金軍が漣水軍を攻めたが、韓世忠配下の呼延通がこれを撃退した。皇帝は張俊に荆襄視師を命じる手詔を下し、二聖が異境にあること九年に及ぶ中、孝悌の情を尽くせぬ我が身を痛惜し、群臣に共に忠義を尽くすよう訴えた。

十二月 神武五軍を行営護軍に改編

  • 神武五軍は行営護軍と改称され、張俊軍は中護軍、岳飛軍は右護軍、韓世忠軍は前護軍、劉光世軍は左護軍、呉玠軍は後護軍とされた。楊沂中は権主管殿前司公事となり呉錫の軍が殿司に編入され、邵濤は兵部侍郎・都督府参賛軍事に任じられた。