三朝北盟會編炎興下帙 紹興五年 1135年

閏二月一日乙巳 群臣を戒飭する詔

  • 皇帝は、先王の世には大小の臣がみな忠良であったのに対し、今回の大敵侵入に際し命を奉じながら怠慢な臣がいたことを叱責し、旧習に慣れた過ちであるとして今回は寛大に処すが、以後は先に訓戒し、それでも改めぬ者は必ず処罰すると布告、刑部に命じて各地に榜文で周知させた。

人事諸事

  • 折彦質は兵部侍郎兼樞密都承旨に。
  • 楊政(懐徳軍出身、寒微の出で「楊尅毯」と渾名された質素な人物、統制官時代に倉米以外の贅沢な食を断ったことで人望を得た)は龍神衛四廂都指揮使・武康軍承宣使から涇原路安撫使に任じられた。『野史』によれば楊政は呉玠配下として和尚原・仙人関で金軍を破る功があり、後年も熈河路経略使・利州路安撫使などを歴任し、紹興十三年に検校少保、二十一年に太尉、二十六年に開府儀同三司に至り、二十七年に六十歳で没したという。
  • 程昌禹は知江州・江西沿江制置使に任じられた(先に「沿海」とあったのは誤りで正しくは沿江)。
  • 王琰は行在に至り侍衛馬軍司の統轄を任されたが、その軍が韓世忠に隷属していたため間もなく罷免され、提挙江州太平観となった。
  • 張琦の副将陳琳は蕪湖県で張琦を劫して偽斉へ逃亡したが、王徳が無為軍境まで追撃して生け捕りにした。

四月 太廟神主の帰還と韓世忠の進軍

  • 太廟の神主が温州より戻された。韓世忠は楚州へ進軍、皇帝は詔を下し、敵の侵入時にまず鋭鋒を挫き潜遁させた功を称え、老幼の民の避難に配慮しつつ淮甸への駐屯を続ける判断を「閫外の事は将軍これを制す」の故事どおり韓世忠の裁量に委ね、酷暑の中の労苦を労う品を賜った。

岳飛、鼎州へ進軍―楊么討伐の準備

  • 都督張俊は楊么討伐のため岳飛軍を鼎州に、呉錫軍を橋口に配した。俊が自ら進撃しようとした際、側近が「勝てば漁民一人を捕えたに過ぎず、敗れれば都督の権威が損なわれる」と諫め、まず諸軍に犒賞をあまねく行き渡らせたと見せかけつつ、実際に岳飛の軍にのみ厚く入念に施すことで士気を測る策を勧め、俊はこれに従った。まもなく輔逵が呉錫に代わり、俊自身は潭州に駐まった。

五月 人事と朱勝非の復職

  • 孟庾は知樞密院事に。朱勝非は服喪を終え観文殿大学士・提挙臨安府洞霄宮に復した。

胡寅、講和に反対し復讐を説く上疏

  • 中書舍人胡寅は、朝廷が何蘚らを金へ遣わし和議を求めようとしていることを知り、強く反対する上疏を献じた。孔子が『春秋』で魯荘公が父桓公の讐である斉と講和したことを厳しく批判した故事を引き、金は宗廟を汚し二帝を拉致した「陛下の讐」であるとし、和議を主張する者は忠義に非ずと断じた。
  • 建炎以来、宇文虚中・王倫・朱弁ら数多の使者を送りながら二帝の所在すら把握できず、逆に和議交渉の間に黄河・淮河・長江の要害を次々失った経緯を指摘。金は宋が二帝奪還と講和を最も重んじる弱みを知って「和を装う」ことで時を稼いでいるに過ぎず、去年冬に「敵は帖服した」と楽観していた矢先に劉豫が挙兵した事実こそがその証だと論じた。
  • 「陛下が金と断てば義挙となるが、和を通じれば利は臣下に帰し悪名は主君が負う。ゆえに使者を志願する者はみな自身の保身を図る者であり国家の計にあらず」と喝破し、孔子の大義に基づき和議を断ち、賢才を集め国力を養った上で北伐して復讐を果たすべきだと結んだ。金がもし和を受け容れても、実際には宋の大臣人事や兵権・領土に介入してくることは必至であり、従えば独立が失われ、拒めば和議自体が破綻するとし、いずれにせよ和議に活路はないと論じた。

朝廷の応答と胡寅の再上奏

  • 三省は「論議は懇切で献納の体を得ている」として学士院に奨諭の詔を発せしめた。胡寅はこれに謝意を表す上奏を重ね、王安石の「大有為」の説や蔡京の「継志述事」の説が一見美辞でありながら実は禍乱を招いた先例を引き、和議論の源流も靖康期の耿南仲の主張に遡ると指摘。是非を明らかにできぬまま八年を経た現状を憂い、皇帝が艱難を経て真偽を見抜く力を得た今こそ、和議派の言をこれ以上用いず、劉豫討伐の詔を厳しく発して国威を振るうべきだと重ねて説いた。自らの上疏が「和議の説が再燃し士気が阻喪する」ことを恐れての諫言であったと述べ、賢才登用と武備充実による北伐こそが中興と二帝奉迎の実のある道であると結んだ。