三朝北盟會編炎興下帙 紹興五年 1135年

正月一日己巳朔 日食により直言を求める

  • 平江府に駐蹕中の皇帝は日食を機に群臣に直言を求めた。

趙栄、濠州から撤退―内紛の顛末

  • 金・偽斉の軍が淮北へ退くのに伴い、偽知濠州事の趙栄も撤退を告げてきた。趙栄が魏進らと退去した直後、提轄丁懐ら四人が甲仗庫を奪い反乱を企てたが、趙栄は思い直して引き返し鎮圧、首謀者を市に晒した。
  • 趙栄は錄事参軍楊壽亨に権知軍州事を委ねて去ったが、軍中は楊壽亨の統治に不満で州印を奪い、兵馬都監孫弈が代わって権知軍州事となった。朝廷はすでに冦宏を旧の如く知濠州とする決定を下していたため、変事を理由に軍兵の推挙を認めず、孫弈は徽州監酒(実務なし)に落とされた。

十三日丁巳 曲赦の詔

  • 金軍撤退を受け、廬州・光州・濠州・寿春府に対する曲赦(部分恩赦)の詔が下された。二聖いまだ帰らず中原も未回復であるが、諸将の奮戦により賊軍を撃退できたことを喜び、戦没者の埋葬、負傷俘虜への医療給付、帰郷を望む者への旅費支給などを命じ、久しく戦禍に苦しんだ民への恩恵を布告した。

金主完顔亶の即位―継承をめぐる暗闘

  • 『神麓記』によれば、烏奇邁(太宗)の病篤い折、皇子宗盤・伯父宗幹・従兄弟の尼堪らがそれぞれ帝位継承を主張し争ったが、太師の幼子烏頁瑪(漢学に通じた范正圖の教えを受けた人物)が「太祖の盟約では太祖の子孫が帝位を継ぐべき」と進言し、太祖の嫡孫赫嚕(安班貝勒、当時十五歳)を立てることで宗幹・尼堪らの同意を得た。宗盤は呼嚕貝勒(尚書令に相当)、宗幹は古倫貝勒(録尚書事に相当)、宗維は伊喇貝勒(丞相に相当)に任じられ、烏頁瑪も左丞に抜擢された。
  • 別伝によれば、金建国の謀主であった阿骨打以下の兄弟十名のうち天会年間には安班貝勒舍音(皇太弟)のみが残り、群臣は南人皆殺しを求めたが烏奇邁はこれを退けた。烏奇邁は金河の氾濫による宮室浸水の改修工事の最中に病没し、太祖の嫡孫(完顔亶)が立てられたという。
  • 『松漠記聞』は、太祖の嫡子勝額が完顔亶を生んで早世し、その妻が古倫(宗幹)に引き取られたため完顔亶は宗幹の家で養われ、烏奇邁の死後は宗盤・宗幹(古倫)・尼堪の間で継承争いが起きたが、完顔亶が太祖の嫡統として立てられたと伝える。
  • 『節要』は、完顔亶が即位後に三省六部を置き官制を改め、居城を会寧府と改称して上京とし、尼堪を左副元帥・晋国王に、烏舍を尚書右丞相にそれぞれ封じたと記す。尼堪・烏舍は完顔亶が最も警戒する実力者であったため、宰相位に据えて兵権を削いだものである。また烏奇邁の長子宗盤を宋国王に封じたが、本来継承順序上「安班貝勒」を与えるべきところをあえて三公の位に留めたため、宗盤は不満を募らせ、後の内乱の伏線となったという。ほか韓企先・髙慶裔・蕭慶尚ら旧臣も要職に配され、鄂勒歡・逹蘭・烏珠らも各地の元帥・経略使に任じられた。
  • 建国当初の金は城郭も定まらぬ質朴な風であり、君臣の別はあれど衣食住はほぼ均しく共有する気風であったと伝えられるが、完顔亶は幼少より燕人韓昉ら漢人儒者の教育を受け、詩賦・喫茶・囲碁など漢風の教養を身につけたため、旧来の功臣たちとは気風が合わず、双方が互いを「無知の輩」「漢人めいた若造」と見なし、即位後は儀礼・宮室・服御を漢制風に整えて旧臣との隔たりを深めたと『金国聞見録』などは評する。

『金国聞見録』―天眷二年の官制改革

  • 天眷二年、群臣は「官制を定め名分を正すべし」との劄子を奏上。唐制を範としつつ遼・宋の制度も参考に、新たな官号・品階・職掌を定めて上進し、旧制に未記載の事項は当面旧慣に従うとした。皇帝はこれを容れ、翰林学士韓昉の起草により、歴代の遺訓を継ぎ時宜に応じた改革を行う旨の詔を発した。

宗盤・宗雋らの誅殺

  • 韓昉が起草した詔によれば、皇伯太師宋国王宗盤、皇叔太傅兖国王宗雋、皇叔虞王宗英・滕王宗偉ら宗室・重臣が謀反を企て帝位簒奪を図ったとして、叛人呉十の自白などを証拠に一斉に誅殺された。詔は骨肉の反逆を痛惜しつつ、関与の浅い者は不問とし民心の安定を図る旨を述べた。

諸国の賀正表

  • 天眷二年、皇后費摩氏の謝表、渤海・夏国・高麗からの賀正表がそれぞれ献じられ、いずれも定型の祝賀辞令であった(内容は略す)。

十六日庚申 韓世忠、少保に加階

十七日辛酉 劉光世、少保に加階、淮南西路宣撫使に

  • 劉豫は敗退を告げる榜文を掲げた。劉光世・韓世忠・張俊が朝見し、皇帝はその功を賞する詔を下し、財を惜しまず養兵に努めてきた成果として今回の防衛が成ったと述べつつ、なお中原未復・二聖未還の中で上下一体となる必要を説き、国用窮乏の折から冗費を戒め、将来の進取に備えるよう求めた。

二月三日丁丑 張守の上疏―措置・軍旅・軍食の策

  • 平江府滞在中の皇帝は張守の度重なる上疏を高く評価し、敵情への対処や善後策を諮問した。張守は「措置」(軍の配置と食糧の確保)こそが急務と説いた。
  • 神武中軍は行在防衛に専念させ、他は淮東・淮西・鄂州(荆南)の三路に分屯させて呼応の勢を作り、大将の兵権が過大化し朝廷の統制が弱まる弊を正すため、麾下の将を統制に抜擢し各五千規模に分割すべきと論じた。
  • 兵糧は二浙の粟を行在に、江東の粟を淮東に、荆湖の粟を岳飛の荆南軍にとそれぞれ充て、余剰は行在に還元する仕組みを提案。年末には大臣を都督として派遣し諸路の兵が互いに援護し合う「常山の蛇」の陣形を築くべきとした。
  • さらに根本は君主の内なる徳治・外なる政治の刷新にあるとし、召公・宣王の故事を引いて修徳(正心誠意・畏天愛民・節倹)と修政(任賢使能・信賞必罰・法度の徹底)を説いた。皇帝はこの上疏を大いに喜んだ。

劉光世・韓世忠・張俊の帰陣と張守の加階

  • 劉光世・韓世忠・張俊は厚い恩賞を受けて感泣し、中原回復を誓って帰陣した。張守はその四事の上疏により資政殿大学士に加えられた。

十三日丁亥 趙鼎・張俊、宰相拝命

  • 趙鼎は尚書左僕射同中書門下平章事都督諸路軍馬、張俊は尚書右僕射同中書門下平章事都督諸路軍馬にそれぞれ任じられた。制詞は張俊の文武兼備の器量と敵の夜遁を招いた功を称える美辞に満ちたものであった。
  • 行状によれば、趙鼎と(同僚の張浚)は「正本澄源」を施政の要とし、幸臣・近習の門を塞ぐことを繰り返し帝に説いた。趙鼎は「王者は百姓を心とし修徳立政に務めれば、大国は力を畏れ小国は徳を懐い天下は自ずと帰服する」と奏し、王朴の「平辺策」を献じた。
  • また君子と小人の見分け方について、私心なく天下百姓を思うのが君子、身の保身を図り利害に無頓着なのが小人であるとし、剛正で阿らぬか柔佞に人主の顔色を窺うか、人の善を語り悪を隠すか逆に他人の功を奪い過を誇張するか等、具体的な基準を列挙して人物鑑識の要を説いた。皇帝はこれを大いに評価した。

親征の詔

  • 皇帝は自ら親征に赴いた理由を詔で述べた。二聖が異境に幽閉されて久しく、屈辱を忍んで和議を求めてきたが、叛臣劉豫が金の威を借りて挑発し、将士の憤激やむを得ず出師したと説明。戦禍に苦しむ民への憐憫と、功あれば必ず破格の恩賞を与える約束を重ねて示した。

効用資法の改定と旧臣の復職

  • 効用(民兵)の資格制度を改め、公据は進勇副尉、甲頭は進勇校尉とする位階に改めた。あわせて秦檜は観文殿学士、李綱は観文殿大学士、葉夢得は資政殿学士、路允迪は端明殿学士にそれぞれ復職を許された。

詔、群臣に内政の刷新を促す

  • 敵の撤退を受け、皇帝は「外患は治まったが中原はなお未定、九廟に祭祀も届かず二聖への孝養も叶わぬ」として群臣に内政の刷新を求める詔を下した。