山東義軍、范温の帰順
- 山東の義軍指導者李齊(沙門島)・徐文(霊山寺)・范温(徐福島)のうち、范温が最も人望を集めていた。呂頤浩の建議で招撫の使者を送るが、途中で范温の勢力に拿捕され、そこで事情を知り交渉が進んだ。李齊は先に偽斉に降っていた。范温は紹興二年に朝廷へ帰順の意を示し、三年に海路で行在に至り、康州刺史などの官を授かった。撫諭・褒賞の勅書が二通、内容とともに記される。
朱仙鎮の敗戦と関中方面の総崩れ
- 牛臯・李横・董先は劉豫の援軍要請に応じた金将烏珠の軍と朱仙鎮で戦い敗れた。董先はもと翟興配下だったが、紹興二年に劉豫勢力の強大化を見て一時偽斉に転じ、後に李横のもとに帰参していた。
- 金軍は順昌府を陥落させ、商州の邵隆は防ぎきれず上津へ退いた。
- 二月、金の偽皇弟薩里罕は蜀への侵攻を図り、商州経由で金州へ迫った。王彦は各地を焼き払って清野作戦を取り、饒風関へ後退した。
- 金軍は饒風関を陥し、さらに洋州・興元府まで陥落させた。呉玠は柑橘を敵将に贈るなど機知を見せつつ数日にわたり奮戦したが、援軍の油断から関を破られ、興洋の物資を焼いて興州へ退いた。四川全土が震撼した。
陝西方面の立て直し
- 王庶が川陝宣撫司参議として起用され、巴州で軍民を招撫し金軍の南下を食い止めた。
- 薩里罕は深入りを恐れ、王庶の招撫策や呉玠の偽情報工作もあって褒斜路を経て撤退した。呉玠は検校少保・利州階成鳳州制置使に加階された。
諸将の異動と失点
- 池州で左軍の反乱が起きたが、都監華旺の機転で中軍・右軍への波及を防いだ。
- 趙鼎が洪州知事・江西南路安撫大使となった。
- 王彦は金州を奪還し、金州は落ち着きを取り戻した。
- 権邦彦が同知枢密院事として在任一年ほどで功績なく没した。その経歴(宗沢配下としての功や東平府での失策など)も付記される。
韓世忠、淮南宣撫使に
- 三月、韓世忠は開府儀同三司・淮南宣撫使に任じられ泗州に司を置いた。
朱勝非の政略と喪
- 四月、朱勝非は母の喪に服したが、上表五策(淮南への出兵と屯田、州県官への賞与、土豪の登用など)を提出し施行された。
- 翟興が保信軍節度使を追贈され、子の翟琮が利州観察使となった。劉忠は偽斉領内で部下に殺された。
諸軍の駐屯と将帥間の軋轢
- 孟庾は鎮江府、劉光世は建康府、巨師古は揚州に軍を置いたが、巨師古は韓世忠の指揮に従わず罷免された。徐文は明州で叛意を疑われ、劉豫のもとへ逃れた。
金への通問使派遣
- 潘致堯が金国からの帰路、金が講和交渉のため大臣派遣を求めていることを伝えた。
- 六月、韓肖胄が正使、胡松年が副使として大金通問使に任じられた。両者は劉豫の下で臣礼を強要されたが、対等の礼を堅持し、金主への忠誠を明言して劉豫を退けた。
朱勝非、喪を退けて再起復
- 七月、朱勝非は喪中のまま右僕射に起復した。劉光世・韓世忠の駐屯地交代をめぐる紛争を朝廷が調停する一幕もあった。
呂頤浩の失脚
- 御史中丞辛炳の弾劾により、呂頤浩は宰相を罷免され鎮南軍節度使・宮観職に退けられた。
岳飛の躍進と諸将の再編
- 岳飛が行在に参内し鎮南軍承宣使・江西制置使に加階された。趙鼎が沿江制置大使となり、神武後軍などの兵は張俊に統合された。
陝西・京西方面のその後
- 十月、呉玠は検校少保・鎮西軍節度使に加階された。
- 偽斉は鄧州・襄陽府・郢州を相次いで陥落させ、李横・李簡は城を放棄して敗走した。李横は趙去疾の勧めで朝廷に帰順し、岳飛が軍を接収した。
- 十二月、偽斉は淮西を侵したが王徳・靳賽が防いだ。劉豫は李成を襄陽府知事とした。韓肖胄・胡松年は使節の任務を終えて帰朝した。