「建炎復辟記」が語る事変の全容
- 別の記録「建炎復辟記」は、建炎二年十二月に太后が杭州に至り苗傅が扈従統制として駐屯していた経緯から説き起こし、三月五日の政変を改めて描写する。苗傅・劉正彦は市中に檄榜を掲げ、大臣・内侍の誤国と将士の不遇を訴え、私利のためではないと弁明した。
楼上の対話(建炎復辟記の記述)
- 知杭州康允之らが百官を率いて宮門に迫り、皇帝の登楼を促した。苗傅は「陛下は内官を信任し賞罰が不公平である、黄潜善・汪伯彦の処分が軽すぎる、王淵は敵前逃亡したのに康履に取り入って樞密使となった」と直言した。皇帝は黄潜善・汪伯彦は既に処分済みと応じたが、康履・曾沢の即時処断は拒み、朝廷による正式な処分を約束した。しかし両将が退かなかったため、康履は引き渡され腰斬・分肉に処された。
- 続いて両将は太后の垂簾を求めた。太后は自ら楼下に出て「今日の禍は上皇(徽宗)の代に蔡京・王黼を任用したことに起因し、当代の皇帝には失徳はない、悪いのは黄潜善・汪伯彦である」と諭したが、苗傅らの要求は変わらず、垂簾と譲位の詔が下された。
反対派の抵抗と勤王の檄
- 尚書右丞張澂は苗傅・劉正彦が兵を分けて睿聖宮の護衛に加わろうとするのを拒んだ。張浚は呂頥浩・劉光世・韓世忠と諮り、反逆を討つ檄文を諸州に発し、宋朝二百年の恩義と苗傅らの不忠を訴えて挙兵を呼びかけた。苗傅・劉正彦は睿聖皇帝(上皇)に親札を求めたが拒まれた。
四月一日~二十日 皇帝復位と諸将の入城
- 四月一日、皇帝は復位した(王世修はこの時点ではまだ工部侍郎に任じられていたが、後に事変への関与により誅殺される)。二日、苗傅・劉正彦は淮南西路制置使・副使に任じられた。四日、呂頥浩・劉光世・張浚・韓世忠・張俊・趙哲ら勤王軍が入城した。
- 六日、朱勝非・張澂は洪州知事等に転じ、路允迪は醴泉観提挙、李邴が尚書右丞に任じられた。八日、天下に大赦の詔が下された。二十日、車駕は江寧府へ向けて出発した。
王淵の履歴(野記)
- 階州出身の王淵は文武に通じ、河北・京東の群盗討伐や金軍との戦いで功を挙げ、御営使司都統制にまで昇ったが、部下将領との軋轢や楊進の離反を招いた経緯があり、苗傅・劉正彦の乱で殺害された。享年五十三。
各地の陥落と匪賊の動静
- 青州は知州劉洪道が城を棄てて退去し金軍に陥落した。金軍はかつて劉洪道が捕らえていた向大猷を釈放して知州に据えた。金軍はさらに鄜州も陥落させた。水賊邵青は済南出身で、盗賊上がりの経歴を持ち、楚州・泗州一帯を舟団で往来し略奪を働いた。