三朝北盟會編炎興下帙 建炎三年 1129年

十六日~二十日 反正への機運と改元問題

  • 王世修は朱勝非に「軍中はおおむね反正(皇帝復位)に応じる構えだが、年号など苗傅らの要求が一つも通っていないことに不満がある」と伝えた。朱勝非は改元(明徳・明受)の議を通すことで軍中の不満を和らげた。
  • 迎立の議に反対する強硬派の張逵に対しては、金国との和議進行中であることを理由に説得を試みた。金への使者は途上で拘留され連絡が途絶えたため、和議への期待は薄れ、かえって反正の機運が高まった。

二十一日 檄文の波紋と張浚の罷免騒動

  • 平江府から苗傅・劉正彦を名指しで弾劾する檄文が城中に伝わり、両将は激怒した。朱勝非は檄文の主が張浚であると見て、いったん張浚を罷免する詔を出させて両将をなだめたが、事態が落ち着くとこの処分は撤回された。

二十六日~二十九日 反正の実行と皇帝復位への手続き

  • 朱勝非ら執政は苗傅・劉正彦を呼び出し反正の方針を伝えたが、両将は当初難色を示した。朱勝非は、和議が成立しない以上迎立を進めるほかなく、金軍の南下前に内外の疑いを解消すべきだと強く説き、また既に王淵誅殺の先例がある以上今さら後戻りはできないと諭した。
  • 二十九日、皇帝復位の詔が下された。前々日から続いた曇天が晴れ、人心は大いに和らいだ。三十日未明、百官が睿聖宮に参集し、三度の上表と勅答の応酬を経て皇帝は正式に復位し、歓呼のうちに行宮へ還御した。

四月一日~五日 苗傅・劉正彦の処遇と勤王軍の動き

  • 苗傅・劉正彦は淮南西路制置使に遷任され部曲を率いて赴任することとなった。両将は鉄券の下賜を求めるなど恩賞を求め続けたが、朱勝非は故事に基づかぬ要求として抑制した。両将の出発後、韓世忠配下の勤王軍が近づいているとの噂が城内に広がり、将佐が武装のまま宮門に押し入る事件も起きた。
  • 朱勝非は辞意を伝え、後任には呂頥浩・張浚を推挙した。皇帝は朱勝非を洪州知事に任じ、慰労の手詔を与えた。朱勝非は謝辞の礼も辞退し、簡素な身なりで任地へ向かった。

事変後の粛清と朱勝非の家族の苦難

  • 苗傅・劉正彦の乱に連座した王世修・呉湛は誅殺され、その家財も没収された。朱勝非自身も渡江の際に家族と離れ離れとなり、避難の途上で火災や金軍の接近に遭う苦難を経験したことが記される。