三日辛巳 江寧府移駐の詔と人事
- 揚州陥落後の混乱を踏まえ、朝廷は江寧府への移駐を四月上旬に行う旨の詔を下した。呂頥浩は知樞密院事・知江寧府兼江南両浙経制使、康允之は知杭州として江寧府の準備措置にあたることとなった。裴淵は靳賽と秦州で交戦し、氈褥で防具を作った民兵で応戦、両軍とも被害を受けたが議和して撤兵した。
五日癸未 苗傅・劉正彦の挙兵と王淵殺害
- 御営都副統制苗傅・劉正彦が挙兵し、簽書樞密院事王淵を殺害、闕に迫って皇帝の譲位を強要した。皇太子が即位し、元祐太后(隆祐太后)が垂簾聴政することとなった。以下は当時執政であった朱勝非の回顧録「秀水閒居録」による詳細な証言。
「秀水閒居録」に見る事変の発端
- 朱勝非は建炎三年二月に車駕に従い瓜州から鎮江へ渡り、鎮江の政務を任された後に平江府秀州控扼使、さらに右相に任じられた。三月初四日、諸将の間に王淵の樞密院昇任(都統制兼任)への不満があると聞いた朱勝非は、王淵の兼官を解いて衆論を鎮めようとしたが、その夜のうちに内臣康履の従僕を通じて軍中の謀反の兆し(統制官田・金=苗・劉の符牒)が伝えられた。
苗傅・劉正彦、王淵を殺し宮門に迫る
- 初五日早朝、苗傅・劉正彦は兵を率いて街路を封鎖し、朝廷から退出した王淵を殺害してその首を掲げ、闕門を閉ざして内に迫った。朱勝非は事態を知り、自ら赴いて詰問しようとしたが皇帝に止められた。
楼上での対峙と王淵・康履らの誅殺
- 皇帝は楼上で苗傅・劉正彦と対面した。両者は王淵の渡江の罪と、黄潜善・汪伯彦の処分の軽さ、内侍康履・曾沢の専横を非難し、康履らの誅殺を要求した。皇帝は当初留保したが、両将が引かないため康履は引き渡され腰斬に処された。
太后垂簾と譲位の強要
- 苗傅・劉正彦はさらに太后の垂簾聴政と、皇帝の皇太子への譲位を求めた。朱勝非は自ら楼下に降りて両将・諸軍に真意を問い、和議のためと確認したうえで、忠義に基づく行動である限り朝廷の指揮に従うよう説いて三軍を鎮めた。皇帝と太后は要求を受け入れ、皇太子が即位し太后が垂簾聴政することとなった。上皇(旧帝)は「睿聖」を宮名とすることが定められた。
事変後の朱勝非の周旋
- 朱勝非は、金国への使者派遣を先延ばしにしつつ表向きは応じる形をとることで、苗傅・劉正彦の疑念と金への内通の双方を回避する策を太后に進言し、了承された。また事変直後の混乱の中でも職務にとどまった従官(李邴・鄭殻ら)を評価し、登用を進言した。