三朝北盟會編炎興下帙 建炎三年 1129年

十九日戊辰 大赦と汪伯彦の再度の辞任要求

  • 皇帝は杭州駐蹕に際し大赦天下を行った。汪伯彦は張澂の弾劾を受け、重ねて竄黜(配流処分)を求める劄子を上奏した。

二十日己巳 金、揚州を焼く

  • 揚州城下に至った金軍は三日間にわたり住民に城外退去の猶予を与えると布告したが、期限が過ぎても揚州の土着民は出なかった。最終日、西北からの移住者は城外の木柵に導かれて助命される一方、城内に残った者は夜通しの放火で大半が焼死した。金軍は翌朝一部の生存者を解放し撤退した。

黄潜善・汪伯彦の罷免

  • 張澂は尚書右丞に任じられ、黄潜善は江寧府知事、汪伯彦は洪州知事へと左遷された。汪伯彦への制詞は、車駕蒙塵・帑蔵空竭・盗賊蜂起の責を問いつつも旧功に免じて外任にとどめる旨を述べている。

二十二日辛未 高郵軍・泰州の陥落と混乱

  • 金軍が高郵軍に迫ると知軍趙士峻は城を棄てて逃走し、判官齊志行は金に投降した。士峻は前任期満了後も居座っていた経緯があった。
  • 潰兵の宋世雄(もと韓世忠の養馬卒宋進)が兵二百余を集めて泰州を攻め、知州曾班は対応を誤って城を掌握された。世雄配下は略奪を働いたが、裴淵の統制で沈静化し、後に曾班は一族の身代金納入により処分が軽減された。
  • 曲端が鄜延経略使に任じられたが赴任を拒み、郭浩が権鄜延経略使となった。

二十四日癸酉 靳賽の通州侵犯と李在の高郵占拠

  • 靳賽が通州を犯した。もと韓世忠配下の李在は高郵軍で潰散兵を糾合し、信王配下の忠義軍を詐称して高郵を占拠、投降官を殺害して勢力を広げた。
  • 朝廷は陳東・欧陽徹に官職を追贈し、遺族を厚遇する詔を出した。

二十七日丙子 馬伸を召すも既に死去

  • かつて黄潜善・汪伯彦を弾劾して濮州監酒に左遷されていた馬伸を、皇帝はその忠直を思い召還しようとしたが、馬伸は既に道中で没していた。

二十八日丁丑 直言を求める詔と各地の動静

  • 皇帝は政事の得失について中外の直言を求める詔を発した。西川から戻った王燮は御営前軍統制に任じられ、蜀への遷都を上奏した。密州では宮議が安丘県を攻めた。
  • 朝廷は江寧府への移駐を予告する詔を発し、過度な準備による民の負担を戒めた。輔逵は漣水軍で兵を集め、張用は西京(河南府)一帯に拠って勢力を広げた。

三月一日己卯朔・二日庚辰 王淵の登用と朱勝非の拝相

  • 王淵が簽書樞密院事に任じられた。朱勝非が尚書右僕射・中書門下平章事に任じられた。かつて朱勝非は睢陽(応天府)を要害としつつも用兵の地ではないと論じ、江寧移駐後の郊祀費用を活用する策を進言していたが、黄潜善に阻まれ果たせず、揚州陥落を招いた経緯があり、皇帝は「卿の言を用いなかったことを悔いる」と述べた。

馬政、応詔して三策を上書

  • 武臣の馬政は直言の詔に応じ、国家の失策を「四誤六失」として総括した。要旨は、金との緊張緩和後の防備を怠ったこと、蜀の要害に拠らず淮甸に留まったこと、和議に頼り軍備を怠ったこと、河北の義兵・簽軍の内応の機を逃したこと、金の南下に対する事前の備えを欠いたことなどである。
  • その上で馬政は、蜀を都として天険に拠り恢復を図る「上策」、武昌を守り荊湖・川広の兵を集める「中策」、金陵に駐まり江防に頼る「下策」を提示し、江湖の険に頼って遷延することを「無策」として戒めた。漢の高祖の蜀漢経営や、呉・晋の江南防衛の故事を引きつつ、蜀への遷幸と人材登用による中興を強く進言した。