三朝北盟會編炎興下帙 建炎元年 1127年

七月四日 傅雱、金国への通問使として派遣される(「建炎通問録」)

  • 高宗即位後、河東方面への使者は誰も引き受け手がなかったところ、李綱の推薦で傅雱が河東路奉使に任じられた。黄潜善は「使者は自らの判断で応対せよ、朝廷は事ごとに指示できない」と伝え、傅雱は国書・礼物を携え出発した。
  • 河陽府では「国号が異なる」との理由で渡河を九日間拒まれたが、最終的に許可され、雲中(金の元帥府所在地)へ向かった。金側の接伴使・館伴使との応接では、高宗の即位と張邦昌の郡王への処遇について問答が交わされ、金側は「宋朝の求めに従ったまでの応急措置」との説明に一定の理解を示した。
  • 雲中の金軍元帥府では左監軍烏舍(オシャ)・右監軍伊都(イト)・時の相公らが応対し、和平回復の趣旨を伝えたところ、金側は「靖康末の背信」を非難したが、傅雱は「それは先朝の過ち」と応じ、二聖の返還への協力を求めた。
  • 館伴の李侗(燕人出身の学士)は個人的な見解として、盛衰強弱は天道の常であり時機を見て動くべきこと、宋の朝廷が守備の不備を悟らぬまま和議のみに頼るのは危ういこと、二聖返還についてはかつて金側二太子の間でも趙氏存続を巡る議論があったが最終的にまとまらなかった経緯があることなどを語った。
  • 会談の最中、金側は「宋が使者を送りながら同時に軍を渡河させている」との情報を得て詰問したが、傅雱は「それは朝廷の意図ではなく賊徒の仕業であろう」と釈明した。李侗は、宋の重臣たちが機を見て事に当たる深謀に欠けると評し、まず休戦して国力を整えるべきと助言した。