二十五日(承前) 呂用中による父・呂好問の弁護(紹興八年の追記)
- 呂好問の子・呂用中は後年(紹興八年)、父の忠節を改めて訴える上奏を提出した。父が靖康の変の際に一度は致仕を申し出たが孫傅・張叔夜に説得されて留守司にとどまったこと、危険を冒して密使李進を河北へ送り高宗の所在を確かめさせたこと、張邦昌を説得し元祐皇太后の聴政を実現させた経緯などを改めて詳述し、父の名誉回復を求めた。
二十七日乙酉 靖康末の逃亡将帥の処分
- 靖康末に宣撫副使として川陝へ逃れた折彦質は散官・昌化軍安置、陝西五路制置使として湖北へ逃れた銭盖は落職・降官、防河の任を放棄した許高・許亢は編管に処された。銭盖への告詞は、都邑包囲の危急時に真っ先に潰走し敵の説を採って朝廷を欺いた罪を厳しく咎めるものであった。
- 宗澤が知開封府・東京留守、杜充が知大名府・北京留守に任じられた。
- 銭盖は後に、かつて青唐(吐蕃)の後継者・益麻党征を藩屏として立てるべしとの献策をしていたことが評価され、陝西経制使に復職した。
二十八日丙戌 李綱、軍備拡充の三策(募兵・買馬・募財)
- 李綱は、金の騎兵に対抗するため、河北・陝西などから流民や潰兵を集めて十数万規模の新軍を編成すべしとする「募兵」案、監牧の荒廃で軍馬が枯渇している現状を踏まえ陝西・京東の民馬を適正価格で買い上げる「買馬」案、国庫窮乏を補うため富裕な上戸に財を拠出させ度牒・官告で報いる「募民出財」案を上奏し、いずれも裁可された。
- 実際に陝西・河北・京東西路で計十万の新軍(驍勝・壮健・忠勇・義成・龍武・虎威・折衝・果毅・定難・靖辺の十号)が編成され、馬の買い上げと富民からの拠出も制度化された。
- 李綱はさらに、唐の藩鎮の弊害を踏まえつつも、沿河・沿淮・江南の要地に帥府・要郡を置き、地方官に軍事上の裁量権を与えて機動的な防衛体制を築く「控禦之策」を献策し、京東・京西・河北東路・永興路・淮南・江南浙東西路・荊南北路などに帥府・要郡が設置された。
- あわせて三省枢密院に賞功司を置き、戦功の記録・褒賞と、敗走・略奪など軍紀違反への厳罰を定めた軍政の細則数十条が布告された。
- 湖北の群盗(閻瑾・党忠・薛広・祝靖ら)が招撫司・東京留守司に投降した。王𤫊・傅亮がそれぞれ河北路経制使・副使に任じられ、白馬・滑州・濬州から滄州・太湖にかけて巡察のための哨所が設けられた。
七月一日己丑 李綱、城池・武備の修築を上奏
- 李綱は、太平が長く続いたため中原諸郡の城池・武備が荒廃していることが陥落の一因であるとし、諸路州郡に城壁の修築・兵馬の訓練・武器の整備を命じ、功績のあった者には褒賞を与えるべきと上奏し、裁可された。