三朝北盟會編炎興下帙 建炎元年 1127年

五月一日 赦文の起草経緯と登壇の背景

  • 「中興記」によれば、当初滕康が起草した赦文には包囲下の士大夫を詆る文言があったため、高宗は耿延禧に改定させ、「圍城士大夫は一切問わない」との寛大な内容とし、衆はその大度に服したという。
  • 朱勝非「南都翊戴記」は、高宗の即位が単なる勧進ではなく北の二聖を望んで壇を築き受命した形式であったこと、府の東に壇を設け登壇即位したことを記す。
  • 「遺史」は、高宗が相州にいた頃、閏月十四日夜に欽宗が衣帯を全て脱いで高宗に賜る夢を見たこと、実際に太上皇帝が譲位に際して欽宗に玉帯を賜り、欽宗が更に高宗に贐として与えていた経緯があり、河北の諸州への申状で「靖王」「康王」のいずれとも記され紀年も両様であったのが、この頃ようやく符合の意味が悟られたと伝える。
  • 黄潜善が中書侍郎、汪伯彦が同知枢密院事に任じられ、即日都堂で執務に就いた。両者の任命制文(黄潜善制・汪伯彦制)も発せられた。
  • 「遺史」は、中興の初めに黄潜善・汪伯彦が首席の執政となったことについて、識者は早くも両名に金への進攻の意志がないことを見抜いていたと評する。

二日辛卯 欽宗への尊号奉呈、元祐皇后の尊称、姦臣糾弾、国史編纂の詔

  • 欽宗(靖康皇帝)に「孝慈淵聖皇帝」の徽号を奉ることが劄勅で定められた。「遺史」は、欽宗の即位時の誕辰(四月十三日)を万寿節として祝った故事や、符讖説による不吉の噂があったことを付記する。
  • 元祐皇后を元祐太后とする勅も発せられた。
  • 李邦彦ら靖康の和議派の大臣(呉敏・蔡懋・李梲・宇文虚中・鄭望之・李鄴ら)を、和戦の判断を誤り国を誤らせた罪により竄謫・処罰する詔が下された。
  • 国史編纂の詔が発せられ、高宗は「二聖播遷の中、単身にして即位せざるを得なかった」との経緯と、質素・節倹・直言の許容・宦官の兵権関与禁止など施政方針を述べた。
  • 大元帥府に従軍した将佐・官吏の功労評定と褒賞、諸路勤王兵の行在到着に伴う配置(王徳は劉光世配下へ)、妖術を用いて衆を惑わした郭京が捕らえられ張思政に殺害された顛末も記される。

三日壬辰 張邦昌の処遇、耿延禧らの人事

  • 張邦昌を太傅・同安郡王とし、五日ごとに一度都堂に参議させることとした。汪伯彦「建炎時政記」によれば、高宗は黄潜善・汪伯彦に「邦昌をどう処遇すべきか」と諮問し、「金の脅迫による已むを得ぬ僭号であり、退位後は宝璽を返し隆祐太后を迎え帰したその功により、寛大に処すべき」との議に基づき王爵を与えたとされる。
  • 黄潜善らに金への使者選定を命じ、張邦昌にも金への国書の草案作成を命じた。
  • 宗澤を襄陽府知府、耿延禧・董耘・高世則を宮観兼侍読、梁陽祖を戸部侍郎、楊淵・王起之・秦百祥を郎官、趙子崧を鎮江府知府に任じた。

五日甲午 耿南仲の致仕、勤王軍の再編、韋賢妃・邢夫人の尊称、李綱召還

  • 耿南仲は老齢を理由に致仕を願い出て観文殿学士・杭州洞霄宮提挙に任じられた。「遺史」は、耿南仲が高宗即位の議が定まった際、自身とその子の身の安全を訴えたのに対し、高宗が師傅としての恩義から寛大に配慮した経緯を伝える。
  • 劉浩・丁順・孔彦威・王善らの軍勢を、軍人・強壮の志願者・老弱の三等に分け再編し、それぞれ功に応じて官職を授けた。
  • 韋賢妃を宣和皇后、邢夫人を皇后とする尊称の制が発せられた。両者は開封陥落の際、金に伴われて北へ送られており、この立后は遥册(実際には不在のまま行う册立)であった。
  • 李綱を尚書右僕射兼中書侍郎として行在に召す詔が発せられた。かつて資政殿大学士として開封府事を領し湖南義兵を率いて勤王に向かう途上、江寧府で反乱を鎮定した経緯や、京師陥落を知り高宗の即位を聞いて上疏し和議への反対を論じたことが記される。