康王、南京にて即位
- 建炎元年五月一日庚寅、大元帥(康王)が南京(応天府)にて皇帝に即位した。
汪伯彦「中興日厯」南都翊戴の経緯
- 四月二十七日、元祐皇后は王時雍・徐秉哲に命じて車駕・法仗・百官庶務を分けて船で運ばせ、宮嬪や張邦昌らを南京に送り迎えさせた。内侍邵成章・王充は輿服・儀仗を携えて南京に赴き康王を迎えた。
- 献上品の中に祖宗伝来の道冠があり、太母の言として「これは祖宗以来、退朝の際に被る冠で、神宗以降は頭巾に替えられたが、即位後の閑暇にはこの冠を戴くのが祖宗の太平の気象である」と伝えられ、康王は涙を流して感激した。
- 康王は将佐らの再三の勧進を固辞していたが、太上皇帝の即位の詔と太母の意向に押され、やむなく受諾。五月一日、南京の譙門の左に壇を築き、朱勝非が策文、滕康が赦文を撰し、南仲を礼儀使として登壇即位、改元して建炎元年とした。
改元の議論(建炎の由来)
- 幕府では即位に際しての建元を協議し、後漢光武帝の「建武」の故事にならい、太祖の生年(丁亥)と康王の生年(丁亥)が符合すること、宋が火徳(炎徳)で王たることから「建炎」と定めた。
- 耿延禧「中興記」によれば、当初黄潜善は「炎興」を提案したが、耿南仲が「これは蜀漢の年号である」として退け、最終的に「建炎」に決した。
即位赦文の要旨
- 即位に際して大赦天下の詔が発せられ、金の侵攻で二帝が北狩し宗廟が危殆に瀕した経緯を述べた上で、光武帝の故事に倣い建炎と改元することを告げた。
- 赦文は、金への従軍で歿した将士・遺族への恩恤、二帝北狩に随行した官吏・軍兵への配慮、張邦昌の偽号は金の脅迫によるものとして不問に付すこと、祖宗陵寝の修復、神霄宮の廃止と財産の没収、青苗銭の停止など、多岐にわたる施策を列挙した。
- さらに、戦死者・殉節者への褒賞、金に抑留された官員家族への給養、逃散した軍民の帰業奨励と旧罪の不問、租税・欠負の減免、綱運や上供の負担軽減、宗室の処遇回復、科挙関係者への配慮、蔡京・童貫・王黼・朱勔・李邦彦・孟昌齡・梁師成・李彦とその子孫の永久不叙用、忠義・孝子節婦の表彰など、国政全般にわたる恩典・改革方針を詳細に定めた。
遺史 黄潜善・汪伯彦の登用への懸念
- 遺史は、中興の初めに黄潜善・汪伯彦が首席の執政となったことについて、識者は早くも両名に金への進攻の意志がないことを見抜いていたと評する。