三朝北盟會編靖康中帙 諸録雑記(軍事的失策と北遷の実情)

「石茂良避戎夜話」にみる守城の失策

  • 著者は城陥落直後に王升卿のもとに難を避け、聞いた話を記録したとする。金は講和の約束を反故にし、河東・河北の要人の家族を人質に取って圧力をかけた。李綱が動員した太原救援軍がたびたび敗れ、九月に太原が陥落したことを朝廷が半年近く自覚しなかった経緯、汴水を牟駝崗に引き入れて金軍の駐屯を妨げようとした策が逆に敵に備えを促す結果となった失策、開封の地形が四方から攻められやすい弱点を持つことなどが論じられる。
  • 金の陣立て(三生陣・同命隊などの厳格な連座軍法)を紹介しつつ、宋軍の陣法が机上の空論に陥っていたと自省し、金と結んで遼を滅ぼした外交そのものが誤りであったと総括する。

「曹勛北狩聞見録」続篇 太上皇、康王への密書を託す

  • 北行の途上、太上皇(徽宗)は曹勛に密かに衣服の裏に「即位して父母を救え」との文字を縫い込み、皇后の耳飾りを信物として託し、康王への言伝を依頼した。太上皇は「宋の徳がまだ尽きていなければ、士衆に推戴された時は速やかに応じ、光武帝の中興に倣うべき」と語り、燕京の民が太上皇の恩を慕って涙する場面や、道中の苦難の様子も記される。曹勛は無事に南へ脱出し、康王に太上皇の意を伝えた。

「趙子砥燕雲録」にみる北地での抑留の実情

  • 著者は宗室として金に抑留され、燕山・中京での二帝の処遇、皇族・宗女の劣悪な養育環境(一年で八割が死亡した収容所の惨状)、金国内の官制における女真・渤海・契丹・漢児の序列、南人(宋人)の奴隷的売買の実態、劉黒忙ら民間の抵抗運動の広がりなどを詳細に記録する。金と宋の外交交渉における不誠実さを繰り返し批判し、「かつて遼と講和しつつ密かに滅ぼされた轍を、今また宋が金との関係で踏んでいる」と警鐘を鳴らして結ぶ。